<邪馬台国、その誕生と滅亡>

以下の説文は、全国邪馬台国連絡協議会の「私の邪馬台国論」に投稿し、2015年11月に掲載されたものを一部改定したものです。

  
   私の邪馬台国論 『邪馬台国、その誕生と滅亡』

西 山 恒 之

<はじめに>

前回、邪馬台国「出雲説」のあらましを述べさせていただきましたが、今回は、邪馬台国に至るそれまでの歴史をさかのぼり、また邪馬台国はどうなったのかといったところを、大陸と我が国に残されている歴史的資料を比較しながら検証してみたいと思います

 1、 渡来人の軌跡

この列島からは、人類は誕生していません。ですから、私たちは、大陸からの渡来人の末裔ということになります。その渡来の主なルートは、樺太からの北ルート、朝鮮半島東側からのルート、同じく西側ルート、黒潮に乗っての南ルートなどが考えられます。
 そして、大陸で普通に暮らしていれば、多くの危険や困難を乗り越えてまで、この南海の孤島に渡航しようという意思が生じることは考えにくいでしょう。
 従いまして、集団的・民族的規模での渡来となりますと、大陸における戦乱からの逃避といったことが最も有力な要因として考えられます。大陸では通常の生活ができないほどの大きな危険と恐怖があり、新天地を求めての渡来です。
 では、今に残されている記録から、過去にどういった渡来があったのか検証してみましょう。
 まず、最初の民族的渡来として考えられるのが、紀元前7世紀頃、中国東北部にいた「山戎」という遊牧民族です。
 紀元前663年、彼らが南下することで燕との抗争になりますが、山戎は、戦いに敗れ、燕の支配下に置かれたり、また多くは東方に逃れていきます。その抗争から逃れ、大陸を追われた山戎の一部が、この列島に避難してきます。彼らは、針首刀といった貨幣を発行していたり、高度な文化や技術を持ち、この列島に新たな文明をもたらしました。在来の民族にとっては、まさしく「福の神」の渡来だったのでしょう。
 彼らの足跡は、「戎神社」として各地に残されています。その戎神社の総本社は、島根半島の東端にある美保神社です。つまり、その地が彼らの上陸した地点で、彼らにとっての聖地でもあります。朝鮮半島の東側から出航し、海流に乗ってやってくると山陰沖に流れ着きます。今でも、朝鮮半島からゴミが山陰海岸に漂着します。その美保神社の地から列島各地へと広がっていったのでしょう。
 燕とこの列島に渡来した山戎の関係は、中国に残されている最古の地理志「山海経」にも、「倭属燕」という記述としても残されています。
 山戎は、漢音では「さんじゅう」と読みますが、古い読み方の呉音では「やまえびす」となります。つまり、「やま」というえびす民族が渡来したことになります。
 彼らは、そこに「やま」という国を築き、遠く故郷を望むことができる現出雲大社の地に都を構えたと考えられます。私は、その都が「やま都」、つまり、これこそが地名「やまと」の由来ではないかと考えています。

 2、 征服された「やまと」

 紀元前7世紀頃から、また紀元前4世紀頃、アレキサンダー大王の東征から逃れて東アジアにやってきた民族がありました。満州エリアに「東胡」、モンゴルエリアに「匈奴」、その西に「月氏」です。
 彼らは、トルコ系民族で、中国王朝からは「胡」と呼ばれていましたが、牧畜はできるものの農耕はできないので、南下して農民を馬で連れ去り、彼らに農耕をさせていました。その被害があまりにもひどくなり、頭を悩ました秦の始皇帝は、その対策として、馬が乗り越えられない高さで万里の長城を築きました。
 その一方で、胡の民族間でも大きな抗争が起きます。紀元前3世紀頃、月氏と匈奴の間に争いが起き、さらに匈奴と東胡との間でも大きな戦いになり、東胡は匈奴に滅ぼされてしまいます。東胡の王は殺され、東胡は鮮卑と烏丸に分裂します。この激しい抗争を逃れて東胡の一部がこの列島に逃避してきます。
 これが、第2の大きな民族的渡来となります。
 先の「山戎」は、多くの「福」をもたらしましたが、東胡の渡来は、この列島の人々に大きな災いや苦痛を強いることになります。
 彼らは、騎馬民族で、馬の蹄鉄や武器など、鉄が必須となります。それゆえ、この列島で最も純度の高い鉄鉱石を産出する出雲の斐伊川沿いに拠点を構えます。そして、強力な鉄の武器で周辺を制圧し、「やまと」のみならず、次第にこの列島全域をも支配するようになります。
 強力な支配力を得た彼らは、周辺の国々に奴隷の供出を迫ります。それが、古事記における「あしなづち・てなづち」が毎年娘を連れていかれることの意味でもあります。その強大化した東胡の勢力の王は、西暦107年、後漢に朝貢し、列島全域から供出させた160名もの奴隷を献上し、その支配力を誇示しています。その彼らの痕跡が、四隅突出型古墳で、斐伊川下流域に大型の墳丘墓(西谷古墳群)を残しています。
 一方、大陸においても東胡の末裔である鮮卑が強大化し、2世紀頃になりますと、逆に匈奴を滅ぼし、北アジア一帯は鮮卑の支配するところとなります。
 この頃、匈奴の一部が、それらの攻撃を逃れてこの列島にやってきます。
 これが、第3の大きな民族的渡来となります。
 匈奴は、漢音では、「きょうど」ですが、呉音では、「くぬ」となります。狗奴国、籠神社、百済、熊野などは、その勢力の痕跡とも考えられます。また、倭の五王の、「讃、珍、済、興、武」とは、匈奴の王のネーミングスタイルでもあります。
 渡来した匈奴の勢力は、中国山脈の高原地域、蒜山に拠点を構えます。現在の真庭市には宮座山があり、そこには盤座(いわくら)が残され、周辺には大規模な集落遺跡が見つかっています。
 また、蒜山の南域には、たたら製鉄の遺跡が数多く残されています。そこで造られた鉄を刀や武器に加工していたのが、備前長船です。このエリアは、武器製造の大きな拠点だったと考えられます。備前一宮の「石上布都神社」には、明治時代まで、スサノオ尊が八岐大蛇を切った剣「布都御魂」が祭神とされていました。
 大陸では東胡と匈奴は激しい民族抗争にありました。その二つの勢力が、この列島で遭遇するのですから、さらなる抗争は避けられないところとなります。当時、この列島の人々は、東胡の厳しい制圧下に置かれていました。その在来の人々とスサノオ尊を中心とする匈奴の勢力は、共同して東胡の圧政を駆逐すべく大きな戦いに挑みます。
 これが、およそ西暦150年頃から40年間にわたる「倭国大乱」と中国の史書に残されている戦乱の意味です。
 その戦乱を制したのが、スサノオ尊であり匈奴の勢力でした。
 スサノオ尊が倒した八岐大蛇とは、当時大蛇のごとくに残忍な支配勢力だった東胡のことを意味しています。八岐とは、古事記にもあるように、「九州・四国・対馬・壱岐・本州・隠岐島・淡路島・佐渡島」の八岐、つまり8の拠点です。この列島全域を支配下にしていた東胡の勢力を、スサノオ尊が在来の勢力とともに駆逐したことが、その逸話の伝えるところです。
 この戦いに勝利したスサノオ尊は、在来の勢力の象徴である「卑弥呼」を国家的象徴とし、自らはそれを支える実質的支配者とする国家体制を築きました。その国名として、卑弥呼の国を「一国」とし、自らを「大国」とします。それは、「一」と「大」の合体で、「天」という文字が構成されるからであります。「一」が上で、「大」は下に位置します。スサノオ尊や匈奴の勢力は、この列島を征服した覇者です。しかし、スサノオ尊は、自らの勢力は、この列島には後からやって来たのだと、あくまで、在来の先住勢力を上に称えます。それを国家体制の基本とし、国名としてもその理念を体現化したのです。
 ここに、国家的象徴の「天」が誕生し、その連合国家は、列島各地で大きく称えられ、全国津々浦々の神社で祀られることとなりました。その神社の参道に築かれた鳥居は、国家的象徴である「天」の文字を象ったものです。そして、大国の王であり、今の総理大臣に相当する「大国主命」が、ここから代々引き継がれていくことにもなりました。その大国の都が、現出雲大社周辺で、後漢書に大倭王の居する「邪馬臺国」と記されました。すなわち、「邪馬台国」です。一方、卑弥呼の国は「一国」、つまり「邪馬壹国」でなければいけなかったのです。
 かくして、邪馬壹国と邪馬臺国による、すなわち在来の勢力と匈奴による連合国家体制がここに誕生することとなりました。
 また、卑弥呼一族は、宮崎・西都原に拠点を構えていますが、その位置からして、朝鮮半島を経由してきたとは考え難く、黒潮に乗って南からの渡来だと考えられます。これが、第4の渡来です。
 その勢力の由来は中東で、当時激しい宗教戦争があり、それを逃れての渡来だったのかもしれません。今に伝わる伊勢神宮の祭神となっている鏡は、その卑弥呼一族が中東から運んだ「家宝」だとも考えられます。
 こうして、卑弥呼を国家的象徴とした連合国家は、大きく発展し、宋書にもあるように、倭の五王の時代、朝鮮半島をも支配下にするほどに、勢力を強めます。そして、その勢力の墳丘墓が、前方後円墳です。あるいは、その形状も「天」の文字に起因しているのかもしれません。
 「鉄を制する者は国を制する」とも言いますが、彼らの力の基本は、たたら製鉄にあります。そのたたら製鉄にあっては、製造や加工に、大量の木材を燃やします。その木材の最大の供給拠点だったのが紀伊半島でした。温暖多雨で、木材が育つのにとても適した場所なので、スサノオ尊は、その重要拠点に、息子の大歳、ニギハヤヒを派遣しました。そのニギハヤヒが、父スサノオ尊や祖先を祀ったのが、熊野三社です。ニギハヤヒ自身は、三輪山に祀られています。
 当時、紀伊半島周辺は、今で言うゼネコンや製鉄加工などの「巨大企業」が集中する列島随一の経済都市圏だったとも言えます。つまり、出雲が政治の中心である首都ワシントンなら、木州・木の国(紀州・紀の国)は、経済の中心地ニューヨークと言ったところでしょうか。その勢力の力は、周辺に巨大古墳が築かれたことなどからも推察できます。あるいは、それらの巨大古墳は、「倭の五王」と言われた王の墓なのかもしれません。
 さて、この列島で大きな力を誇った匈奴による連合国家も、鮮卑によって統一された中国王朝との激しい抗争に巻き込まれます。


3、 隋…鮮卑が中国を統一

永らく分裂を繰り返していた中国王朝ですが、楊堅が隋を建国し、589年に中国全土を統一しました。楊堅は、鮮卑系の北周の系列にあり、中国王朝は、胡の勢力の鮮卑によって統一されたことになります。
 したがって、鮮卑と匈奴が、大陸とこの列島で対峙するという構図となったのです。そうなりますと、双方とも決して穏やかではありません。
 西暦600年、この列島から隋に使者が送られ、その使者が、この列島のことを伝えています。しかし、楊堅は、その使者が伝える出雲王朝の国家体制には道理が無いとして、訓令でもって改めさせたとあります。早くも両国間に火花が飛ぶ状態になったとも言えます。
 そして、第2代皇帝煬帝が即位したばかりの大業3年(607)に、ふたたび隋に使者が送られ国書が届けられています。
 その国書には、「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云」とありました。煬帝の即位の祝賀といった使者に携えられた国書において、煬帝に対し、『あなたが天子なら、私も天子だ、よろしく』と、対等の意思表示をした内容になっています。さらに、隋の皇帝を日が没するところの天子だとしています。彼らにとって日、太陽は、神をも意味します。それが没することは、隋の没落をも意味しています。
 ですから、隋は、『蠻夷の書無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ』と激怒します。
 翌年、隋は、出雲王朝に対し使者を送り、出雲王朝はそれを歓迎していますが、「此後遂断」、国交断絶に至ってしまいます。


 4、 唐…同じ鮮卑による政権交代

隋の煬帝の時代、民衆への度重なる負担で各地に反乱が発生し、隋は大混乱に陥ります。
 その混乱を鎮静させるべく、隋の武将だった李淵は、首都大興城を制圧します。そして、李淵は、恭帝から『禅譲』を受けて即位し、唐を建国しました。とは言え、隋も唐も同じ鮮卑による貴族政治であって、その王朝の担い手が代わったに過ぎません。今で言う「政権交代」といったところです。
 李淵は、まずは武力でもって制圧し、その後に都合よく、まるで強制ではなく譲られたのだという形で皇帝位に就きます。
 これが、唐王朝を築いた李淵の手法です。
 ここには、古事記に残されている『国譲り』の原型がありました。


5、 唐王朝による占領支配

649年、李治が、第3代皇帝位に就くも病弱だったため、655年に皇后となった武則天が実質的支配者となります。
 当時、唐王朝は道教を推奨していて、その道教の考え方を基にして、660年、武則天は皇帝を『天皇』とし、皇后を『天后』と改名しています。
 ここに、我が国の今にまで続く天皇の『ルーツ』があります。
 武則「天」の幼名・本名は武「照」です。つまり、天皇の祖先とされる「天照」とは、天皇の命名者である武則天を意味していました。その武則天は、後に即位し聖神皇帝を名乗ります。つまり、聖「神」皇帝たる「武」則天で、「神武」です。すなわち、天皇の祖先が「天照」だとか、初代天皇が「神武」だといったことは、天皇のルーツが「武則天」にあることを伝えていました。
 さらに、中国皇帝制度にあって唯一「天皇」を名乗ったのが李治で、唯一「天后」を名乗ったのが武則天です。一方、我が国の天皇の名前で「天」がつくのは「天智」と「天武」だけです。すなわち、『天』皇であるところの李『治』で『天智(治)』、『天』后であるところの『武』則天で『天武』ということを示唆しています。天智が兄で天武が弟とされているのは、肉親ということではなく、唐王朝の宗家と外戚という上下関係を意味しています。年齢では、武則天の方が5歳ほど年上になります。
 また、「釈日本紀私記」には、淡海三船により、神武から元正に至る天皇の漢風諡号を一括撰進したことが記されているので、今に伝わる古事記は、8世紀後半に作成、あるいは改変されたものと考えられます。
 さて、同じく660年に、朝鮮半島は大きな戦乱状態に陥ります。百済と高麗が新羅を攻め、その新羅が唐に救援を求め、唐王朝は、この期にとばかりに、東アジアの制圧を目指します。
 その戦乱において、唐の武将「劉仁軌」に、朝鮮半島やこの列島を制圧するように指令が下ります。
 仁軌は新羅の兵と合流して、百済軍を打ち破りながら進軍していきます。それに対し、662年、百済は、この列島の「倭国」にも援軍を要請してきます。
 その翌年663年の9月、孫仁師等が白江にて百済の余衆及び倭兵を破ったとあります。さらに、仁軌等は、水軍及び糧船を率いて、倭兵と白江口にて遭遇しています。これが、『白村江の戦い』と言われており、仁軌軍は、四戦して全勝し、倭国の舟四百艘を焼き、煙炎は天を焦がして海水は朱に染まったと記されています。
 倭国、つまり出雲王朝は、5万人とも言われる軍勢を百済救援に送り込みましたが、ことごとく殲滅されてしまいます。
 その直後に百済は滅ぼされてしまい、倭国もその主力部隊を失ったため、この列島は仁軌率いる唐王朝軍にあえなく占領・征服されてしまいました。
 そして、朝鮮半島やこの列島は、引き続き唐王朝の支配下に置かれますが、664年10月、検校熊津郡都督の仁軌が、皇帝にいくつかの進言をしています。(資治通鑑)
 そこには、貴重な資料となる事柄が述べられています。仁軌が、兵士に『今の汝等は赴任して一年しか経っていない。それなのに、なんでそんなにくたびれた有様なのだ』とその様子を尋ねます。そして、その兵士たちの状況を、皇帝に『兵士達が持っている衣を検分すると、今冬は何とか身を覆うことができるでしょうが、来秋はどうやって過ごせましょうか』と伝えています。
 これらのことからも、唐王朝軍によりこの列島が制圧されたのは、664年10月の1年前だということが分かります。
 仁軌は、さらに重要なことを述べています。
 『陛下が兵を海外に留めているのは、高麗を滅ぼすためです。百済と高麗は昔からの同盟国で、倭人も遠方とはいえ共に影響し合っています。もしも守備兵を配置しなければ、ここは元の一国に戻ってしまいます』
 『還成一國』
 この列島に守備兵を配置しておかなければ、元の『一国』に戻ってしまうと述べているのです。つまり、この列島は、『一国』と『大国』が連合国家を為していたと前述しましたが、そのことを仁軌は述べていました。
 唐王朝は、一方の『大国』、すなわち出雲王朝の勢力は殲滅し一掃しましたが、そのままにしておけば、『大国』の支配は消したが、もう一方の『一国』に戻るだけで、その地を引き続き占領支配しなければ、高句麗対策という列島征服の目的は果たせないと、その思惑を吐露しています。
 すなわち、卑弥呼のいた女王国の名称が、魏書において『邪馬壹国』とありましたが、それは書き間違いでも認識間違いでもなく『一国』、つまり『壹国』でなければならなかったことが、唐王朝の家臣の言葉によって証明されたことになります。
 この列島は、高句麗征服のため、そして東アジア一帯を自国の支配下にしようとする大唐帝国構築のために制圧され、その後も占領支配が続けられていきました。


6、 唐王朝の占領下で歴史が変えられる

西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、唐王朝によって、この列島の都があった「出雲(やまと)」の地が占領・征服され、列島全域もその支配下に置かれました。
 つまり、当時の都「やまと」、すなわち「邪馬台国」は唐王朝によって滅ぼされていたのです。
 同時にそれは、この列島において、東胡・鮮卑の勢力による支配が復活したことになります。これこそが、古事記にある「天の岩戸」の説話の意味するところです。また、スサノオ尊によって滅ぼされた「八岐大蛇」復活でもあります。これ以降、日本人は、残忍な勢力の奴隷として延々と支配下に置かれることになりました。
 そして、唐王朝の勢力は、唐(藤)を源(原)としているという意味で、「藤原氏」を構成し、日本の人々を奴隷の如くに隷属下に置き、支配し続けることになったのです。
 その彼らの皇祖武則天を意味する天照は、最強の神として伊勢神宮に祀られています。ですから、伊勢神宮の神紋は、花菱、別名「唐花」です。
 また、日本の人々は、武則天の勢力である武氏、つまり武士によって土地のみならず歴史までも奪われ、唐王朝によって都合よく改ざんされた架空の歴史が、自らの歴史だとして支配されていくことになりました。天照、つまり武則天は、征服などしていない、大国主命に譲られたとする「国譲り」も彼らの「禅譲」という手法です。実際は、殺戮の限りを尽くしています。
 そして、それ以来、出雲王朝の存在は消され、古代の都「やまと」は、奈良盆地に存在していたことにされてしまいました。


7、 唐王朝滅亡、大陸での復活こそがすべて

ところが、この列島を植民地支配していた唐王朝も、907年、朱全忠等に滅ぼされ、大陸から逃れてこの列島に流れ着きます。その時に持ち込んだ宝物が今も東大寺正倉院に保管されています。
 そして、彼らは、再び大陸を支配下にしろという強烈な天照の「指令」を、この列島の中枢を支配する子孫(藤原氏)に残しました。それが、今に伝わる「古事記」です。それは、彼らの始祖神である武則天の指令を意味しています。
 その古事記にある「因幡の白兎」の説話とは、『この日本の人々を騙して利用し、再び大陸の支配者として舞い戻れ。しかし、決してそのことは口にするな』というのがそこに秘められたメッセージでもあります。


<終わりに>

 トルコエリアから東アジアに逃避してきた「胡」の民族である「東胡」、「匈奴」、「月氏」は、今に至るまで、この列島に大きな影響を残しています。その激しい民族抗争を抜きに、今のわが国の本質を知ることはできません。
 古事記にある、天照(東胡)が左目から、月夜見(月氏)が右目から、スサノオ(匈奴)が鼻から生まれたという説話は、それらの勢力が、中央アジア由来の同系列の民族であることを伝えています。
 また、663年11月18日(旧暦10月10日)、当時の日本の都「やまと」が、唐王朝によって占領征服される無残な事態を目の当たりにし、それを万葉集に伝え残していた人物がありました。その人こそが、出雲王朝のラストエンペラーであるところの「柿本人麻呂」です。

「東の 野に炎の 立つ見えて 返り見すれば 月西渡る」(巻1−48) 

日没とともに南中して、夜半に西へ傾く月こそ、旧暦10月10日の月、つまり上弦の頃の月です。
 柿本人麻呂は、出雲王朝が襲撃され焼き討ちされるところを、出雲大社の地に聳えていた高層の神殿から見ていたのです。それは同時に、邪馬台国の炎上であり、滅亡でもありました。
 旧暦の10月10日と言えば、毎年、その夜、出雲の稲佐の浜では「神迎祭」があり、翌日から「神在祭」が執り行われます。これらの神事は、出雲王朝の今で言う総理大臣に相当する「大国主命」をはじめ、多くの家臣が惨殺された弔いが、今に至るまで行われていることを意味しています。
 その後、我が国は、唐王朝・藤原氏による徹底した支配下に置かれ、彼らによって都合良く改ざんされる「新しい歴史」がこの国の歴史だとされていきます。
 ですから、邪馬台国や我が国の古代史の解明とは、その消された歴史を取り戻すことだと私は理解しています。
 なお、万葉集や中国の史書も含め、詳細はインターネットや書籍で公開していますので、ぜひ、そちらもご参照ください。                     




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