邪馬台国に到るためのヒント

 邪馬台国をめぐっては、様々な説が飛び交い、未だに結論が出ていないとされています。なぜ到達できないかといいますと、そこには、手品やマジックと同様、いくつかの種や罠が仕掛けられているからです。もう、ほとんど落とし穴と言ってもいいかもしれません。そこに入り込みますと、まるで迷路に迷い込んだかの如くに、混迷の世界へはまり込んでしまいます。そして、そこはあたかもロマンあふれる世界のように思ってしまいますから、ほとんどそこから出られなくなってしまいます。
 ですから、現在、我が国の古代史に関わるほとんどの人々が、そういった混迷の中で右往左往している状況下にあります。
 自らの手法や信念で研究されている方に私がどうこう言うことはありませんが、中には邪馬台国についてどう考えたら良いのだろうと疑問を持っておいでの方もあろうかと思います。
 そういった方々へ、少しでも参考にしていただければと、いくつかのヒントを提示いたしました。
 

1、魏志倭人伝の記述に間違いや勘違いはありません。

 通説にあっては、魏志倭人伝には、国名や方角、距離、年代等に誤りがあるとも言われています。
 ところが、決して、そういった間違いはありません。間違っているのは、そういう解釈をしている側です。誤差は少々あるかもしれませんが、当時の測量技術を駆使して、かなり正確に描かれています。
 そして、卑弥呼が居たのは、邪馬台国ではなく、邪馬壹国であって、その壹は、壱、数字の一を意味する文字です。卑弥呼は、一国の女王でした。そして、その国名は一国でなければ、一大国、一大率、天の香具山などは、成立しなくなってしまいます。卑弥呼の国は、一国でなければいけなかったのです。


2、魏志倭人伝に邪馬台国への道順は記載されていません。

 古代史に興味のある人々のみならず、一般の方々においても、魏志倭人伝には邪馬台国への道順が記載されていると思っておられることでしょう。
 ところが、魏志倭人伝には、邪馬台国への道順など記載されていなかったのです。まず、当時のこの列島の大使館的な役割を持っていた伊都国への道順を記すことがその主題となっています。そして、その周辺諸国を紹介する中に、卑弥呼のいる女王国が記載されているにすぎません。
 決して、魏志倭人伝は、邪馬台国を紹介した文章ではありません。


3、歴史を改ざんした唐王朝が日本を征服し、植民地下に置いた。

 唐王朝は、この列島を紹介している魏書、宋書、隋書などの記述を改ざんしています。その痕跡が、梁書や北史・南史に残されています。そこにあっては、まさしく邪馬台国の女王卑弥呼という概念が登場しています。今の我が国における邪馬台国論争の混迷の原因はここにあります。
 その唐王朝は、西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、当時の都があった出雲を占領・征服し、我が国を植民地支配下に置きました。そして、彼らは、自らに都合の良い架空の歴史を創作し、我が国の人々に押し付け、本来の歴史を奪い去りました。
 人類史上類例を見ない、国家的な歴史の捏造と1300年にわたる洗脳教育が行われてきています。


4、邪馬台国の証拠は数多く残されています。

 邪馬台国についての確たる証拠が見つかっていないとも言われています。
 しかし、それは、別物に見えているだけで、無いのは証拠ではありません。それを証拠だと認識できないだけのことです。遺跡としても文献としてもかなり残されています。
 学校教育、あるいはマスコミで流される情報からは、邪馬台国に到達することは不可能です。
 手品やマジックといっしょです。分からないうちは、何度も騙されます。しかし、その種や仕掛けが解ったら、なんてことはありません。解ってしまえば、どうしてそんなことが解らなかったのだろうということになります。
 大きく発想を変えて、納得がいくまで調べ尽くすことです。
 そこから、真実の歴史に到達することができます。






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