(27) 唐王朝による支配体制が確立
 
唐王朝は、この列島を占領・征服するのは、高句麗攻略のためだとしていました。もしそれが本当の理由であったのなら、668年に唐王朝は高句麗を滅ぼしていますから、676年に朝鮮半島から軍を撤退させたように、こんな南海の孤島からも、さっさと軍を引いているはずです。しかし、唐王朝は、引き続きこの日本を占領したまま支配し続けます。それは、本当の動機が水銀鉱脈の奪取にあったことを物語っています。それゆえ、彼らは、794年、大きな水銀鉱脈のあった丹波と伊勢の間に位置する平安京に拠点を構えています。丹は水銀を意味しています。丹波とは、すなわち水銀の産地「丹場」ということです。その丹波国一宮の出雲大神宮から平安京までは、10kmほどしか離れていません。
 そして、701年、唐王朝は、日本における支配体制を確立させています。それが、大宝律令です。
 そこにあっては、西暦190年頃、スサノオ尊と卑弥呼によって築かれ、400年にわたって繁栄してきていた統一国家の体制も歴史も、ことごとく排除され、その存在すら消されてしまいました。
 そこに残されたのは、唐王朝の傀儡国家に変わり果ててしまった哀れな日本の姿です。

 長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物、朝臣真人者、猶中國戸部尚書、冠進德冠、其頂為花、分而四散、身服紫袍、以帛為腰帶。真人好讀經史、解屬文、容止温雅。則天宴之於麟德殿、授司膳卿、放還本國。

 旧唐書によると、長安三年(703年)、日本の大臣の朝臣真人が方物を貢献に来たとあります。朝臣真人は、中国の戸部尚書のようで、冠は進德冠、その頂は花となし、分けて四方に散らし、身は紫の袍を服とし、白絹を以て腰帯としているとあります。さらに、真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美だったとも述べています。
 武則天は、これを麟德殿に於
ける宴で司膳卿を授けて帰国させたとしています。
 この703年に朝貢した朝臣真人への対応は、信用できないし態度も横柄だとされた648年の使者と大きく異なります。見た目も立派で理解力もすばらしいと大絶賛され、その容姿が中国の戸部尚書のようだということは、中国様式の服装をしていたようです。
 その朝貢した使者からは、唐王朝の支配下になどないとしていた出雲王朝の毅然とした姿勢は微塵も感じられません。完全に、日本が唐王朝の植民地国にされてしまったことを物語っています。
 それ故、この列島の征服を指令した武則天は、その支配下となった日本から来た使者が自らの前に跪く姿を見て、すこぶるご満悦だったのでしょう。
 それ以降、唐王朝の勢力は、唐(藤)を源(原)にするという意味で「藤原氏」を構成し、王朝を補佐する佐藤、近くの近藤、遠くの遠藤、伊賀の伊藤、加賀の加藤などなど、各地に支配勢力として派生していきます。
 そして、彼らは、荘園領主として、日本の人々をその支配下に置きます。それは、地主と小作人という関係で延々と続くことになります。
 また、彼らは律令制度とともに身分制度も導入し、日本の人々を徹底した差別支配の下に置きます。それが、位階制度と言われるもので、
皇族は、1品から4品までの4階、それ以下の臣下は、正1位から従1位、正2位従2位と続き、上下があったり大初位・小初位なども含め、30階にランク付けされています。この位階制度は、手直しされながら、今もまだ続いています。
 彼らは、大陸に於いて貴族として特権支配を築いていましたが、同様にこの日本でも貴族として、日本の人々を収奪し隷属下に置きます。
 つまり、我が国の人々が差別されているその原点は、唐王朝による列島支配にあったのです。唐王朝の勢力への貢献度でそのランクが決められます。その基本的支配体制は、律令制の時代から今に至るもほとんど変わっていません。後々にまで続く、藤原氏などの貴族の本質は、この日本を支配下にした唐王朝の勢力にあったのです。

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Ⅶ、唐王朝の傀儡国家誕生
 日本は、隋や唐の属国支配に対し、果敢に対抗しましたが、663年秋、白村江の戦いで主力部隊が殲滅され、手薄になった所を、劉仁軌率いる唐王朝軍に占領されてしまいました。また、同年11月18日(旧暦10月10日)、当時の都である「邪馬台(臺)国」、すなわち出雲王朝も滅ぼされました。それは、古事記に「国譲り」として残されています。
 そして、その時、唐王朝が惨殺した大国主命や数多くの人々を、その祟りを恐れ、今も出雲で弔っています。それが、毎年旧暦10月10日夜7時、稲佐の浜で神迎えの神事に始まる「神在祭」です。
 唐王朝の勢力は、大陸からの視点で歴史を改ざんしていましたが、この日本を占領・征服すると、またさらなる歴史の改ざんをしています。その時々で、自らに都合良く歴史を創り変えるというのが、彼らの一貫した姿勢です。    

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