邪馬台国検証

終わりに

 邪馬台国に関わる議論で、その確証と言えるものが見つかっていないということも良く言われます。つまり、邪馬台国が存在した証拠が無いとされています。ところが、出雲に邪馬台国が存在していた証拠は数多く残されています。無かったのは、その証拠を証拠と見抜く認識の方でした。
 例えば、358本の銅剣の発見された荒神谷遺跡や、39個の銅鐸が発見された加茂岩倉遺跡の東南に位置する「神原神社古墳」から発掘された、「景初三年」という魏国の年号が刻まれた三角縁神獣鏡もそのひとつです。
 この発見は、我が国の歴史を変えるほどの大きな意味を持っていました。つまり、魏志倭人伝にも記されていた、正始元年(240年)、魏が、この列島の倭王に使者を派遣した際に届けられた銅鏡だったからです。この銅鏡こそが、出雲に当時の倭王が存在していたことを証明するものでした。同時に、それは、出雲がこの列島の都であり、邪馬台国だったことを意味しているのです。
 ところが、その銅鏡は、卑弥呼から渡ったとされています。卑弥呼の使者は、景初二年(238年)に行ってますから、景初三年に造られた銅鏡は、その時点ではまだ存在していません。存在してもいない物が渡るなどということは有り得ません。
 すると、辻褄合せに、卑弥呼の使者が景初三年に行ったから、その銅鏡を授かっているなどとしています。しかし、景初三年の元日に魏の明帝は亡くなっています。そうしますと、卑弥呼の使者は、明帝からの詔書を授かっていますから、景初三年に行ったなどとしますと、明帝からの詔書を受け取ることができなくなってしまいます。
 あちらを立てればこちらが立たず。どのように繕おうとしても、卑弥呼の使者が「景初三年」の銅鏡を手中にすることは不可能です。嘘を重ねれば重ねるだけ矛盾も大きくなります。
 また、邪馬台国の姿は、万葉集にも残されています。万葉集には、この列島の都「やまと」、つまり邪馬台国の地を鮮やかに詠い残していました。ところが、その「やまと」は、奈良にあったとされ、そのため、矛盾に満ちた解釈が生じてしまっています。万葉集に詠われている「やまと」とは、今で言うところの出雲の地を指し示していました。
 そして、万葉集第二首は、卑弥呼が、西都原から表敬訪問して、スサノオと共に香具山に登って国見をした折に、卑弥呼によって詠まれています。その香具山は、今は「奉納山」と呼ばれています。
 さらに、その時に製銅文化にある卑弥呼は、358本の銅剣を贈っています。その銅剣は、出雲が唐王朝に滅ぼされる時に、荒神谷に埋められています。一方、製鉄文化にあるスサノオは、卑弥呼に大太刀を贈っています。その大太刀は、今、西都市にある都万神社に「日本一の大太刀」として奉納されています。つまり、今の時代における結婚指輪の交換のようなものです。
 これ以外にも、邪馬台国の痕跡は数多く残されています。しかし、記紀認識という偽りの歴史認識に囚われていたのでは、邪馬台国だけでなく、この列島の本当の姿に至ることはできません。
 たとえ証拠を目にしていても、証拠と見抜ける認識がなければ、それが何を意味するのかを理解することはできません。唐王朝が、この列島の歴史を改ざんしていることを認識できるかどうかが、すべての鍵を握っているとも言えます。

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