<邪馬台国「出雲説」概論>

以下の説文は、全国邪馬台国連絡協議会の「私の邪馬台国論」に投稿し、2014年7月に掲載されたものです。

  
   私の邪馬台国論 『邪馬台国「出雲説概論』

西 山 恒 之

<はじめに>
 初回の投稿ということで、自己紹介も含めまして、私がどうして古代史に関わるようになったのか、そして、邪馬台国「出雲説」のあらましといったところを述べさせていただきます。

1、  きっかけは、万葉集
 私、西山恒之(58)は、鳥取県で自営業を営んでいます。
 そして、今から去ること10年、2004年の2月に、私は、たまたま京都駅のステーションビルの書店で「万葉集 名画の風景(学習研究社)」という本を手にしました。
 そこには、綺麗な景色を背景にして数多くの歌が紹介されていました。少々万葉集に興味を持つ者にとっては、心引かれるものがありました。
 そして、歌の紹介やその解釈を読んでいますと、あちこちに疑問がでてきます。確かに万葉集の詠まれた時代は、千数百年以上もの過去にさかのぼりますから、不明な点があるのは無理もないことです。しかし、どうしてそんなにも多くの疑問があるのか、その方がむしろ謎というか興味をそそられ、その本を購入し、万葉集の謎解きにアタックすることにしました。
 これが、その後、私が古代史と関わるきっかけとなりました。

2、  疑問にあふれる歌
 では、最も疑問に思った歌をご紹介します。
 『大和には 群山あれど 取りよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は』(巻1−2)
 この歌は、時の大王が、当時の都だった奈良大和にある香具山に登って詠んだとされています。
 ところが、奈良盆地には、海もなければ「あきづ島」、つまりトンボのような形状の島など何処にも存在しません。そこで、通説にあっては、香具山の近くに埴安の池があり、それを『海に見立てて詠んだ』とされています。「あきづ島」は、この列島をあきづ、トンボのようだと詠んだとのことです。つまり、この歌は、空想の産物だとされています。それならば、別に山になど登る必要はありません。
 私は、図書館や書店で万葉集に関する本を探し、疑問を解明しようとしました。また、インターネットでも何かそういった事が公開されていないかどうかも調べました。
 しかし、私と同様の疑問を持つ方もありましたが、それが解明されているような本やサイトは何処にもありませんでした。

3、  都「やまと」を求めて
 大王が、「やまと」で国見をするのですから、「やまと」とは、当時の都を意味します。その「やまと」で詠われた万葉集第2首には、海原が詠われています。しかし、奈良盆地には海原など存在しません。それゆえ、その大王は想像で詠んだと解釈されているのです。
 私は、その第2首を詠んだ大王は、広大な国原や海原を見ながらその歌を詠んだとしか思えませんでした。空想どころか、むしろ潮の香りすら漂ってくるほどに写実的な歌のように思えました。
 そうなると現地調査あるのみだと、奈良大和にも行きましたが、『万葉集第2首は、奈良盆地で詠まれてなどいない』と、ただただ確信が深まるばかりでした。
 そんな時、北九州に高山、あるいは香山ともされる山があり、そこは見晴らしもよく、「天の香具山」ではないかと言われているということを知り、北九州にも行きましたが、残念ながら、そこも第2首の条件を満たしてはいませんでした。
 我が国の歴史では、古代の都「やまと」は、奈良に存在していたとされています。ところが、その都「やまと」で詠まれたとされる万葉集第2首が、奈良で詠まれてはいないとなると、古代の都「やまと」は、奈良盆地には存在していなかったとならざるを得ません。
 そして、その謎を解明しようと我が国に残されている数々の文献や遺跡を調べましたが、その答えは何処にもありませんでした。私は、とてつもなく大きな疑問と謎に呆然とするばかりでした。
 そんな時でした。『この列島の都であるならば、中国の史書に何らかの痕跡が残されていても不思議ではない』と、ふと思い浮かびました。
 そして、それ以後は、中国の史書を検証することにしました。

4、「邪馬台国の女王卑弥呼」という認識はない
 漢書に1行ほどの記述があり、次に三国志魏書東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝を検証しました。しかし、そこにはよく言われるところの「邪馬台国」も「邪馬台国の女王卑弥呼」という記述も概念もないということが分かりました。
 ですから、その作者であるところの西晋の陳寿が『書き間違えた』と解釈されています。
 本当にそうなんでしょうか。国を代表する歴史家が国名を書き間違えるなどあり得るのでしょうか。例えば、我が国の文部科学省が我が国を紹介する文章で、字が似ているからといって「太平洋」を「犬平洋」などと間違えるようなもので、そんなことは有り得ないとしか思えませんでした。
 そうなりますと、魏志倭人伝には、邪馬台国は登場していないということになってしまいます。そして、「邪馬台国の女王卑弥呼」という認識も成り立たないことにもなります。
 我が国のみならず、中国の史書にも大きな疑問が立ちはだかってきました。いったい我が国に関わる歴史は、どうなっているのでしょう。
 次に後漢書を検証しました。そこでは、この列島には、大倭王が邪馬臺国に存在しているという記述がありました。さらに、卑弥呼の国はその邪馬臺国とは別の女王国として描かれていました。後漢書にも、「邪馬台国の女王卑弥呼」という認識はありませんでした。

5、  隋書で「邪馬台国」に到達する
 その後、隋書を検証している時でした。隋の使者がこの列島の大倭王のところにやって来るという記述がありました。その使者の足取りを追っていきますと、北九州に上陸し、その後東に向かい、10余国を経た後に、『達於海岸』とありました。その使者は、大陸から海を超えてやってきていますから、決して海が珍しい訳ではありません。つまり、険しい内陸部を経てようやく海岸に出たという思いを表現したのだと思いました。瀬戸内海を船で航行したり、海岸沿いを移動したとしますと、常に海が見えているので、そういう表現にはなりません。
 そこで、私は、その使者は、中国山脈を超えたのではないかと思ったのです。今でも出雲街道と言われる峠越えの道が残されています。それを行きますと、当時にあっては、大変過酷な行路となります。
 そして、峠越えをしたところで、その使者は、数百名によって歓迎されています。しばらくの休息の後、10日ほどした頃に、都から200騎ほどの騎馬隊がお迎えにやってきました。
 これらの記述を見た瞬間、『これって出雲?!』と、私の中に閃光が走ったような衝撃を覚えました。
 200騎もの騎馬隊で迎えるということは、騎馬民族であるところの出雲王朝だろうと考えました。この時、それまで思いもよらなかった『出雲が都だった』という認識に到達したのです。
 さらに、同じく隋書には、その当時の都は、魏書の頃の都「邪馬臺国」と一緒だという記述もありました。
 つまり、魏志倭人伝には、当時の都が登場しているとあるのです。では、どこにそういった記述があったのでしょう。私は、もう一度魏志倭人伝に立ち返りました。そうしますと、魏志倭人伝には、倭王と倭女王という2大勢力が描かれていたのです。その倭王の地こそが、「邪馬臺国」で、隋書の頃まで同じ場所に存在していたのです。同様に、後漢書でも、倭王と倭女王が描かれていました。
 すなわち、長年議論されている邪馬台国は、実は出雲だったということにもつながりました。私は、万葉集の謎を追い求めてはいましたが、決して邪馬台国探しを目的とはしていませんでした。しかし、この列島の都を特定しようと中国の史書を検証する中で、邪馬台国の発見にも至ることができたのです。
 こうして、とうとう、この列島の古代の都が特定できましたが、そうなりますと、万葉集第2首が詠われたのは、出雲なのかもしれないと、いよいよ当初からの謎の解明に王手がかかりました。

6、「天の香具山」に到達する
 衝撃の出雲の出現により、私の謎は、解明に向けて一歩も二歩も近づいた思いがしました。
 しかし、出雲とは言っても、どこでそんな歌が詠まれたかとなりますと、そう簡単には分かりません。
 とりあえず、出雲について調べてみることにしました。出雲風土記、出雲大社、熊野大社、八重垣神社、日御碕、宍道湖等々、あるいは荒神谷遺跡など謎の宝庫とも言えるほどに数多くの歴史的遺産を残しています。さすが、この列島の都だっただけのことはあります。
 そういった歴史を検証する中で、今は本州とつながっている島根半島が古代にあっては島だったことが分かりました。それも細長い島です。まさしく「あきづ」、トンボのような形をしています。島ですから、当然その周辺には海が広がっています。
 そして、日御碕の近くには、経島(ふみじま)、あるいは御厳島(みいつくしま)と呼ばれて、古来より禁足地とされている島があることも分かりました。その島は、ウミネコの繁殖地となっていて、12月頃におよそ5千羽が飛来し、7月頃にはまた飛び去っていくとありました。今は、ウミネコと呼ばれていますが、鴎科の鳥です。にわかに、鴎とウミネコの違いは分かりかねます。古代にあっては、鴎と呼ばれていたと考えられます。
 また、出雲は、たたら製鉄の国ですから、製鉄やその加工には多くの木材を燃やします。その煙が、山や周辺のあちこちで立ちのぼっていたことでしょう。
 次第に、第2首の条件が整ってきました。
 では、第2首を詠んだ大王は、出雲のどこに居たのでしょう。
 実は、あの出雲大社から巨大な柱が発掘され、そこには32丈、およそ100mはあったかという超高層の神殿が建っていたことも明らかになっていました。そこに、時の大王が君臨していたと考えると、その巨大な神殿の意味も見えてきます。何と言ってもこの列島を代表する国家的象徴ですから、出雲王朝の威信の表れといったところでしょうか。いよいよ大王の居所も特定できました。
 もし、大王が国見をするとすれば、おそらくその付近だと思われます。
 周辺の山を地図で検証しますと、出雲大社の北面の東側は、標高100m以上もある山が連なり、大王が気軽に登れるとは思えませんし、海や鴎からも遠ざかってしまいます。
 一方、西側には、手頃に登れそうな70mほどの山があり、地図には、「奉納山」と記載されています。出雲大社に残されている古絵図にも、ほとんどその奉納山が描かれ、西の海岸線が奉納山の真下あたりにまで来ています。
 これらの検証により、この奉納山と呼ばれている山こそが、「天の香具山」であろうという確証を得ました。
 そして、奉納山を目指して、出雲に向かいました。
 出雲大社周辺には確かに多くの山々が連なり、『群山あれど』と詠まれている状況とぴったりくることが分かりました。そこから500mほど西に行くと奉納山があります。山に沿ってらせん状の道を上がって行きますと、途中に、日本海が広く見渡せる場所があり、その雄大な景色に見入ってしまいます。古来からの展望台という山に相応しい眺めだと思いました。
 そして、ようやく期待に満ちあふれた頂上に到着しました。
 そこには、展望台が設置してありました。当たり前のことですが、今も昔も見晴らしの良さには変わりはなかったということです。
 その展望台に上がりましたら、それはもう感動もので、東は遠く東出雲のあたりから、西は出雲以西の海岸線を一望に見渡すことができます。そして、中国山脈の山々や、広大な日本海が眼前に広がっています。第2首が詠われた当時、その山々からは、たたら製鉄の煙があちこちで立ち上っていたことでしょう。今は、南側、その頃の対岸との間は平地となり街並みが広がっていますが、当時は海でしたから、瀬戸内海のような美しい景色が見えたことでしょう。また、今も近くにある稲佐の浜には数え切れない程のウミネコが飛来しますが、当時も周辺を飛び交い、その鳴き声が響き渡っていたことでしょう。
とうとう、第2首で詠われた「天の香具山」を探し当てることができました。2000年近い昔に、時の大王が国見をした場所に自分が立ち、その当時と景色は大きく変わったとは言え、第2首の詠み人と同じ視点から同様の景色を眺めていると思うと身震いがしそうでした。
 ところが、残念ながらその歌は奈良の地で詠まれたことにされ、その詠み人は想像で詠ったことにされてしまいました。
 また、他の万葉集の歌の検証からも、天の香具山は奉納山でなければならないと再確認することができました。

7、「邪馬台国の女王卑弥呼」とは?
 万葉集や中国の史書の検証により、この列島の古代の都「やまと」とは、実は出雲に存在していたという認識に至ることができました。
 魏志倭人伝や後漢書でも、この列島には、倭王と倭女王という2大勢力があったことが描かれており、その倭王の地こそが邪馬台国で、出雲に存在していたことが判明しました。さらに、女王卑弥呼は、南九州の西都原に居たことも分かりました。
 では、今のわが国では、「邪馬台国の女王卑弥呼」という認識が、当然の前提かのごとくに思われていますが、いったいどういうことなのでしょう。漢書、魏志倭人伝、後漢書、宋書、隋書と検証してきましたが、そんな認識は何処にもありませんでした。
 それは、引き続く史書の検証から、次第に明らかになっていきました。
 唐の時代に作成された梁書を読みますと、卑弥呼の国が邪馬臺国とされ、そこには倭王が居するとなっています。どういうことなのでしょう、魏志倭人伝でも後漢書でも倭王と倭女王という2大勢力が描かれていました。さらに、卑弥呼の次に女王となったのは壹與でしたが、それが臺與と名前まで変わっています。その上、文身国なる国まで登場しています。そんな国は、何処にも出てきませんでした。
 過去の史書の何処にも出てこなかった認識が、唐代になっていきなり梁書に登場しているのです。同じ、唐代に作成されている隋書でも、そんな認識は、記されていませんでした。
 その大きな疑問は、唐代に記された北史・南史の検証から明らかになりました。

8、歴史を改ざんした唐王朝
 北史では、隋書を基本にしていますが、一部分付け加えられたり削られたりもしています。そこでは、本来「邪馬壹国」だったものが、「邪馬臺国」に変えられたり、その上、とんでもない場所へ行くような意味不明の道順となってもいます。つまり、出雲にあった「邪馬臺国」を卑弥呼の地にあったかのように描き、さらに、別の場所へ移していることになります。すなわち、出雲にあったこの列島の都「やまと」の抹殺です。
 さらに、南史では、宋書を基本としていますが、北史同様、宋書の部分に、他の資料を加えることにより文章全体の意味を違うものにしてしまっています。
 元々、宋書では、倭の5王と呼ばれる倭王について紹介していますが、それ以外のことは述べられていません。ところが、南史では、宋書の部分の前後に卑弥呼の国を紹介した魏志倭人伝の文章を付け加えているのです。そうなるとどうなるでしょう。倭の5王は、卑弥呼の地に存在していたことになってしまいます。
 そして、消された出雲の地には、抜かりなく文身国なる国が用意されていました。その国の国民は、豊かだがお客が来ても食べ物も出さないケチなやつらで、国王に至っては、金銀財宝にまみれ、貴重な水銀を豊富に持っているが雨ざらしにしていると、かなり恣意的に描かれています。
 唐代の梁書、北史・南史では、それ以前の歴史認識を全く異なるものに変質させてしまっています。倭王と倭女王がいたのに倭王が消され、出雲にあった「邪馬臺国」は卑弥呼の地にあったとされ、さらにその場所はとんでもないエリアにあったかのように変えられてしまいました。
 私は、この時点で、唐代に於いて史上稀に見る歴史の改ざんが行われていたことを理解しました。同時に、その改ざんされた歴史認識が、今の我が国の歴史認識となっているという驚愕の事実に直面することにもなりました。
 これが何を意味するのか、それは、その後の史書の検証から明らかになっていきました。そこには、さらに驚くべき事実が秘められていたのです。
 しかし、当然ながら、今の我が国では、そういったことは一切明らかにされていません。
 私自身、そんなことがわが国で起きていたなど夢にも思いませんでした。

<終わりに>
 今回、私が、どのようにして邪馬台国に到達したのか、万葉集や中国の史書との関わりからご紹介させていただきました。
 今の我が国においては、邪馬台国のみならず、我が国の成り立ちに関わる古代史には数多くの謎があるとされていますが、その根源には、唐王朝による歴史の改ざんがあったという認識に至りました。
 では、何故、唐王朝はそんな姑息な歴史改ざんといった行為に至ったのでしょう。さらに、どうしてその改ざんされた歴史認識が今の我が国の歴史認識となっているのでしょう。
 それを解明しようとしますと、唐王朝や我が国の民族的歴史を紀元前にまで遡らなければなりません。そして、東アジアのみならず、中央アジアにまでそのルーツを遡らなければなりません。それは、そういった人の流れがあったからに他なりません。
 ということで、次回は、そういったところを述べさせていただきたいと考えています。
                                                     




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