謎を解くカギは中国の史書にあった

隋 書

倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居、魏時、譯通中國。三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、 但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
 唐の時代、636年に隋書が作成されています。そこには、今まで以上に興味深い資料が盛り込まれています。
 まず、倭国の地は、水陸3千里、つまり、対馬国まで千余里、さらに一大国まで千余里、さらに末盧國まで千余里とありましたから、上陸地点を指しているようです。今までの史書には、倭人としかなかったのですが、夷人という表現が出てきました。そして、その夷人は里数を知らず、日でもって計っているとあります。つまり、それだけ広範囲での移動をしていたということなのでしょう。今までは、倭人としていましたから、在来の民族とは違う民族だといった認識があったと考えられます。
 また、倭国の境界は、東西が5ヶ月、南北が3ヶ月行く程の広さだとしています。そして、東西南北それぞれが海に至るともあります。東が高くて西は低いとありますから、東は関東地方から西は九州地方までをその勢力下にしていたと考えられます。
 その都は、邪靡堆、つまり邪馬臺であると述べています。さらに、その邪馬臺は、魏書にも登場しているとしています。つまり、魏書には『邪馬台国』について記載されているということになります。
 先に、検証した魏書のどこにも都を意味する邪馬臺といった表現は出てきませんでした。ですから、『所謂』としています。魏書には、直接的ではなく、都であるところの『邪馬臺』を意味することが描かれていると隋書では述べています。
 では、魏書の何処が、その『邪馬臺』の記述に相当するのでしょうか。
 これまでの史書では、卑弥呼は、あくまで女王国の卑弥呼であって『邪馬臺』にいる王という表現はどこにも出てきませんでした。唯一、後漢書に『大倭王』の居するところの『邪馬臺国』という記述がありました。
 そして、その『大倭王』は、倭の5王でもありました。つまり、魏書に登場していた『倭王』の地が、『邪馬臺』だということになります。
 では、魏書を、もう一度振り返ってみましょう。

景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月,詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼
 景初2年(238)6月に、倭の女王が使者を送り様々な貢物を献上し、その同年12月に魏は、卑弥呼を親魏倭王とする詔書と金印や銅鏡などが与えられたとあります。
 これについては、先に検証したところです。

正治元年,太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,并齎詔賜金、帛、錦?、刀、鏡、采物,倭王因使上表答謝恩詔。其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆
 魏は、ここに登場する『倭王』に使者を送り、詔書と印綬や様々な品物を授けています。そして、それらの行為を、『詣、奉、拝』といった、仰ぎ見る言葉で表現しています。
 それに対して、倭王は、その使者に謝意を示し、同4年に、倭国の使者を魏に送り様々な貢物をして返礼したとあります。
 ここが、隋書の言う『則魏志所謂邪馬臺者也』と指摘している部分だと思われます。つまり、景初2年には、倭の女王卑弥呼が魏に使者を送り、魏から詔書や金印などを授かっています。
 そして、その2年後には、この列島の『大倭王』に詔書や印綬などが届けられたと考えられるのです。
 それを証明するような物証も発見されています。
 1972年、島根県の神原神社古墳から、景初3年の年号が刻まれた三角縁神獣鏡が多数の副葬品の中から発掘されていたことは、先にも触れました。この銅鏡は、景初2年に魏から卑弥呼が授かった銅鏡100枚の内の1枚ではないか、とも見られていますが、それはあり得ないこともすでに述べました。
 景初2年に魏から授かっている銅鏡に、景初3年の年号が刻まれることはありません。銅鏡は、景初2年だけでなく、正始元年にも倭王に与えられたと記載があるように、景初3年に作成された銅鏡が、翌年、正始元年に、出雲の倭王に贈られたのです。
 その銅鏡が神原神社古墳から発見されたということは、魏書に登場する正始元年当時の倭王がそこに葬られていたことになります。景初3年の銅鏡は、この列島の倭王の証として授けられたと考えられます。
 また、魏書も後漢書も、倭王と倭女王という表現は、同一の人物としてではなく、別の王を意味するように描かれています。あくまで、卑弥呼は、『倭の女王』という表現になっています。
 従って、そこには、出雲王朝の倭王と、九州の女王卑弥呼が描かれていたことになります。
 つまり、その当時、この列島には、大きくは、九州の卑弥呼を中心とする勢力と、出雲を中心とする2つの勢力があったという事になります。
 『日本書紀私記』には、『北倭』と『南倭』とがあったという認識も示されています。すなわち、『北倭』であるところの出雲に居た大倭王の居するところの都が、『邪馬臺』であったということになるのです。
 これが、隋書の言う『則魏志所謂邪馬臺者也』が指摘していることだと考えられます。
  
開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩[奚隹]彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天爲兄、以 日爲弟、天未明時出聽政、跏趺座、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。王妻號[奚隹]彌、後宮有女六七百人。名太子爲利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大徳、次小徳、次大仁、 次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。
 そして、その倭王が登場しています。倭王の姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩き彌、おおきみと呼ばれていたようです。
 この倭王は、開皇20年(600)に使者を送りました。その使者が、訊ねられて答えています。
 『倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。 そして、天が未だ明けざりし時、出でて政を聽き、跏趺して座し、日出ずれば便ち理務を停めて、そして云う、我弟に委ねん』
 ここには、倭王が、天と日の関係を兄弟のように紹介しています。それは、この列島の国家的象徴と実質的支配者を意味しています。この世界を包括するところの『天』ですが、しかしその『天』には支配力はありません。その力を持っているのは、太陽、つまり『日』です。この宇宙全体を含む概念を、国家形態に反映させていると考えられます。ですから、国家的象徴の『天』は、夜が明けると同時に、実質的支配者であるところの『日』にすべてを『委ねん』と言うのです。
 では、この国家形態は、いつ誕生したのでしょう。先の後漢書でも検証しましたが、西暦190年頃に卑弥呼が女王として『共立』されています。この時に、この国家的象徴の『天』が誕生したものと考えられます。40年にもわたる抗争の末、統一王朝が誕生したということです。
 『天』という文字は、『一』と『大』によって構成されます。つまり、卑弥呼の国は『邪馬壹国』、それは『一』です。そして、出雲は『大国』、『大』です。
 卑弥呼の里、『日向国』の一宮『都農神社』の神紋は、○の中に一で、その『一』が残されています。
 出雲では、亀甲に大の文字の神紋が残されています。すなわち、『一国』と『大国』は、190年頃に誕生し、初代大国主命は『スサノオ尊』で、その後代々引き継がれていきました。
 『卑弥呼』は、大陸の王朝による蔑称で、わが国では、万葉集に『日皇子(ひのみこ)』として描かれています。そして、その『一』は『大』の上にあり、『大』は『一』の下に位置します。スサノオ尊は、卑弥呼の国を『一』として上に奉りますが、『大』があってこそ『一』は、上に位置することができます。
 このように、国家的象徴として卑弥呼は君臨しますが、一方で、スサノオ尊の勢力は、『大』として『一』を奉りながら、実質的支配者として勢力を強めていきます。
 この関係を、記紀にあっては、天照が姉でスサノオ尊を弟としています。それは、肉親関係というよりも、その国家形態を表現したものと考えられます。 
 ところが、隋の皇帝は、その国家形態に道理が無いとして、訓令でもって改めさせたとあります。
 また、その国の官位には、『徳、仁、義、禮、智、信』とあり、それぞれに大小があるので、12階ということになります。つまり、官位12階という形態を600年に隋に行った使者が紹介しています。ところが、わが国の歴史にあっては、聖徳太子が、603年に『官位12階』を導入したとしています。そんなことは、あり得ないことです。また、ここに登場する倭王は、推古天皇だとされています。推古天皇は、女性の天皇です。この倭王には、妻がいると記されています。女性の天皇に妻があるはずもありません。
 日本書紀の記述も含めて、そういった架空の歴史が何故作られたのかよく考える必要があります。

大業三年、其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜。兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日没處天子無恙」云云。帝覧之不悦、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
 大業3年(607)に、その倭王は、隋に使者を送ります。先に送った使者が、倭国の国家体制について述べたことに対し、隋の皇帝は、訓令で以って改めろと命令を下しています。
 それに対する回答が、この国書であるとも言えます。使者が届けたその国書には、「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云」とありました。
 大業3年と言えば、第2代皇帝煬帝が即位したばかりです。その即位の祝賀といった使者に携えられた国書は、煬帝に対し、『あなたが天子なら、私も天子だ、よろしく』といった、対等の意思表示をした内容となっています。
 それ以上に、隋の皇帝は、日が没するところの天子だとしています。彼らにとって日、太陽は、神をも意味します。その没することは、隋王朝の没落をも意味しています。
 ですから、隋王朝は、「蠻夷の書無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ」と激怒してしまいます。

明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又 至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞。 

 その翌年、隋は、清を使者として倭王のもとに送ります。ここからが古代史解明の最も重要な場面とも言えるかもしれません。ここで言う倭王とは、冒頭にあったように、邪馬臺にいる大倭王になります。
 とうとう、邪馬臺国の都に使者が行く事になったのです。では、一緒に邪馬臺国へ行ってみましょう。
 その使者は、百済、竹島、対馬などを経由して、一支国、竹斯国へとやってきます。竹斯国とは、筑紫国であり、北九州に上陸しました。そこからまた東に行くと秦王国があり、そこの人々は中国と同族のように見えるが真偽は不明とあります。
 そして、また10余国経ると海岸に出たとあります。さて、筑紫国から東へ行き、さらに行くという事は、方向としては東方面へ向かっていると考えられます。南に向かったとはありません。そうなると、本州に渡っているということになります。
 『達於海岸
 つまり、内陸部を通り、あるいは山地を越えると『海に出た』という表現をしています。海岸沿いを行く人が、こういう表現をすることはありません。では、本州を東に向かい『海に出た』という思いをするとしたらどういう行程なのでしょう。瀬戸内を東にずっと行けば、常に右手に海が見えています。そうなると、考えられるのは、中国山脈を越えたということになります。
 つまり、出雲街道、あるいは石見街道と呼ばれる道が今でも残っていますが、それを経て日本海へ抜けたのではないでしょうか。そして、筑紫国より東の国はみな倭国に付属していたとありますから、宋書にもあったことと一致します。
 さて、峠越えをしたところ一行を歓迎する式典が催されたようです。数百人で出迎え、鼓角が鳴らされたとありますから、相当な歓迎振りだったことが伺えます。そして、10日ほどした頃に、200騎ほどの騎馬隊とともに迎えがやってきます。
 これで、ようやく邪馬臺国の実像が見えてきました。つまり、中国山脈を越えて日本海側に出て、そこに騎馬隊が迎えにやってきたということは、邪馬臺国は騎馬民族たる出雲の勢力だったということが、ここでも述べられています。

既至彼都、其王與清相見、大悦、曰:「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝徳並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人 來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。
 いよいよ、大倭王のいる都、つまり邪馬臺に到着しました。その王との会見が記されています。
 王の言葉が、初めて中国の史書に登場しました。その王は、大いに悦んで述べたとあります。
 『我、海西に大隋、礼儀の国ありと聞く、故に遣わして朝貢した。我は夷人にして、海隅の辺境では礼儀を聞くことがない。これを以て境内に留まり、すぐに相見えなかった。今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待ち、願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい』
 かなり丁重に話しているようです。やはり、あの国書で隋の皇帝が怒っているというのが伝わっていたのでしょう。礼儀に欠けていたと謝っているような口ぶりです。しかし、隋の倭国に対する対応は、訓令とか朝命といった属国扱いです。ですから、逆に、『大隋は、礼儀の国』だと聞いているということは、大隋なら大隋らしく礼儀を知れと言っているようにも取れます。
 そして、『大国維新の化』を聞きたいと言っています。つまり、大国を維新、つまり大きく刷新させるにはどうしたらよいかということでしょうか。隋のことは大隋としていますから、『大国維新の化』とは、出雲王朝たる『大国』を維新、大きく変革しようと考えていたことが伺えます。
 その問いに対し、使者清は、倭王に皇帝の徳について述べた後、館に就きます。そして、人を遣わして『朝命はすでに伝達したので、すぐに道を戒めよ』と伝えています。かなり怒っているような様子とも言えます。あるいは、最後通告的な言葉にも聞こえます。それでも、丁重におもてなしをして帰国する清に使者をつけてお送りし、貢物も届けているようです。
 しかし、最後は、『此後遂絶』で終わっています。この後、国交断絶に至ったということでしょうか。
 以上見てきましたように、この隋書には、とても貴重な資料が残されていました。わが国の歴史的資料では、まったく見ることのできないような邪馬臺国の実像に迫る事が出来ました。



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