邪馬台国検証

(9) ついに、邪馬台国に到達する!
 中国を統一した隋王朝は、倭国に対して、国家体制を改めろといったまるで属国のごとくの扱いをします。しかし、倭王は、屈することなく毅然とした対応を貫きます。ところが、その国書によって、隋との関係は険しくなってしまいます。

明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞。

 その国書に激怒した隋は、その翌年、清を使者として倭王のもとに送ります。
 ここからが、邪馬台国解明の最も重要な場面とも言えるかもしれません。ここで言う倭王とは、冒頭に指摘されていた邪馬臺にいる大倭王ということになります。つまり、魏志倭人伝の頃から続くこの列島の都「邪馬台(臺)国」に使者が行く事になったのです。そうなりますと、その使者の足取りをたどって行けば、「邪馬台(臺)国」へ行けることになります。
 では、一緒に邪馬台(臺)国へ行ってみましょう。
 その使者は、百済、竹島、対馬などを経由して、一支国、竹斯国へとやってきます。竹斯国とは、筑紫国であり、北九州に上陸しています。そこからまた東に行くと秦王国があり、そこの人々は中国と同族のように見えるが真偽は不明とあります。
 そして、筑紫国から東へ行き、さらに10余国経るということは、本州に渡っているということになります。
 『達於海岸
 そして『海岸に達した』という表現をしています。例えば、瀬戸内海を船で航行したり、その沿岸を行く人は、こういう表現をすることはありません。「海を渡る」、あるいは「海岸に沿って行く」と描くでしょう。
 では、本州を東に向かい、さらに『海岸に達した』という思いをするとしたらどういう行程なのでしょう。その使者は、大陸から船でやって来ていますから、決して海が珍しいわけでもありません。
 そうなると、考えられるのは、中国山脈を越えたということになります。つまり、出雲街道、あるいは石見街道と呼ばれる道が今でも残っていますが、その険しい山道を経て日本海へ抜けたのではないでしょうか。その中国山脈の中でも、比較的超えやすい、広島から浜田へ抜けるルートを超えたのかもしれません。使者「清」一行は、日本海岸に達したということになります。
 そして、峠越えをした一行を歓迎する式典が催されたようです。数百人で出迎え、鼓角が鳴らされたとありますから、相当な歓迎振りだったことが伺えます。それから、10日ほどした頃に、200騎ほどの騎馬隊とともに都から迎えがやってきます。
 ここに至って、やっと、邪馬臺国の実像をとらえることができました。つまり、中国山脈を越えて日本海沿岸に出て、そこに騎馬隊が迎えにやってきたということで、邪馬臺国とは、騎馬民族たる出雲の勢力だったということに行き着きました。ついに、この列島の都、すなわち、大倭王が君臨する「邪馬台(臺)国」は出雲に存在していたという認識に到達することが出来たのです。
 それゆえ、出雲には、数多くの神社、神話、神事などなど、古代の都としての遺跡、痕跡が残されていたのです。
  
既至彼都、其王與清相見、大悦、曰:「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝徳並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。

 いよいよ、大倭王のいる都、つまり邪馬臺に到着しました。
 その倭王との会談が記されています。倭王の言葉が、初めて中国の史書に登場しました。
 その倭王は、大いに悦んで述べたとあります。
 『我、海西に大隋、礼儀の国ありと聞く、故に遣わして朝貢した。我は夷人にして、海隅の辺境では礼儀を聞くことがない。これを以て境内に留まり、すぐに相見えなかった。今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待ち、願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい』
 かなり丁重に話しているようです。やはり、あの国書で隋の皇帝が怒っているというのが伝わっていたのでしょう。礼儀に欠けていたと謝っているような口ぶりです。
 しかし、隋の倭国に対する対応は、訓令とか朝命といった属国扱いです。ですから、逆に、『大隋は、礼儀の国』だと聞いているということは、大隋なら大隋らしく礼儀を知れと言っているようにも取れます。
 そして、『大国維新の化』を聞きたいと言っています。
 その問いに対し、使者清は、倭王に皇帝の徳について述べた後、館に就きます。
 そして、人を遣わして『朝命はすでに伝達したので、すぐに道を戒めよ』と伝えています。かなり怒っているような様子とも言えます。あるいは、最後通告的な言葉にも聞こえます。
   それでも、丁重におもてなしをして帰国する清に使者をつけてお送りし、貢物も届けているようです。
 しかし、最後は、『此後遂絶』で終わっています。
 この後、国交断絶に至ったということのようです。
 
 この隋書には、とても貴重な資料が残されていました。わが国の歴史的資料では、まったく見ることのできないような邪馬台(臺)国の実像に迫る事が出来ました。
 我が国の古代史最大の謎とも言われている「邪馬台(臺)国」は出雲にあったというのが、魏志倭人伝・後漢書・宋書・隋書を検証したことによる結論でした。
 では、その邪馬台(臺)国は、その後どうなったのでしょう。

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