<とうとう邪馬台国の謎は解明された>

以下の説文は、全国邪馬台国連絡協議会の「私の邪馬台国論」に投稿し、2016年8月に掲載されたものを一部改定したものです。

  
    『とうとう邪馬台国の謎は解明された』

西 山 恒 之

<はじめに>

我が国の古代において、「出雲」が大きな歴史的拠点であったことは誰しも知っているところです。その出雲の地こそが、古代の都「やまと」であり、「邪馬台国」でした。
邪馬台国や卑弥呼について、その場所をめぐって江戸時代から論争が繰り広げられてきていますが、未だに結論が出ていないことになっています。しかし、それは、意図的に邪馬台国には行き着けないように、本当の歴史が隠蔽されたことによるものでした。それこそが、邪馬台国にたどり着けない最大の要因でした。つまり、我が国に関わる歴史が改ざんされていたのです。
ということで、今回は、中国に残されている史書を振り返り、どのように我が国の歴史が歪められていったのかを検証してみたいと思います。字数の制限もありますので、要点にのみ触れることになりますが、何卒ご了承ください。


1、山海経

倭属燕
 山海経は、中国最古の地理書とも言われていますが、そこには、この列島に関する記述がわずかに残されています。前回の投稿『邪馬台国、その誕生と滅亡』の中で、中国東北部にいた「山戎」という遊牧民族は、紀元前663年、南下して燕との抗争になりますが、その戦いに敗れて、燕の支配下に置かれたり、この列島に逃避してきたと述べました。山海経の記述からは、この列島にやってきた山戎の勢力は、その後も燕との関係があったことが伺えます。


2、漢書

樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。
 この列島には百余国があって、時々朝貢していたとあります。山海経でも、「倭」とありましたが、ここでも「倭人」と表現されていて、大陸に王朝が誕生した頃から、この列島の人々は卑下されていたことが分かります。


3、三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝

所謂「魏志倭人伝」と言われていますが、3世紀末、西晋の時代に陳寿が記したとされています。この史書には、距離や方角、あるいは年代や国名に至るまで間違いがあるように言われることもあるようですが、基本的にそういった間違いはなく、その記述通りに読んで何ら問題はありません。

 始度一海、千餘里至對馬國。
 まずは、朝鮮半島から対馬に至っていますが、その距離はおよそ50㎞です。それを千余里としていますから、当時の魏の1里はおよそ50mだということになります。

 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國
 対馬国からまた海を渡ること千余里とありますから、そこからおよそ50kmに『一大国』があるとしています。それは、現在の『壱岐島』に至りますが、その距離は、同様に記載されている通り、およそ50kmです。

 又渡一海、千餘里至末盧國
 『一大国』からまた海を渡ること千余里とありますから、そこからおよそ50kmに『末盧國』があるとしています。
 さて、ここで問題となるのは、方角が示されていないということです。それによって、道順や方角に諸説出てくることになってしまいました。したがって、『末盧國』に至る唯一の手がかりは、『壱岐島』から50kmの位置にあるということです。そうなりますと、当然北九州の沿岸ということになります。
 調べてみますと、南の『平戸』や『松浦』は、およそ40km。南南東の『唐津』は、およそ35km。南東の『博多』は、およそ50km。その距離からしますと、『博多』が最も合致していることになります。博多湾には、金印が発見された志賀島もありますから、その地が大陸との交流の要所だったということでは、整合性が一番高いと考えられます。
 つまり、博多湾が、大陸からこの列島に至る、当時の表玄関だったということになります。


 東南 陸行五百里、到伊都國
 『末盧國』から、陸を東南に五百里行くとあります。『末盧國』は、博多だとしましたが、そこから東南には平地が開けています。そして、五百里、およそ25km行きますと、そこに『伊都国』があったとしています。それまでの国には「至」るとありましたが、ここ『伊都国』では「到」るです。今までの国は通過点でしたが、『伊都国』は、目的地、到着地点だとしています。
 博多から東南に25km行きますと、甘木がそれに相当します。現朝倉市甘木、この地に『伊都国』があったと考えられます。地理的には、九州各地に通じる主要な街道が甘木で交差していて、『伊都国』はその要所に位置していたことが分かります。


 郡使往來常所駐
 『伊都国』には、帯方郡からの使者が往来し、駐在しているとあります。つまり、そこは、今で言うところの「大使館」的な場所だったと考えられます。ですから、この魏志倭人伝に記されている道順は、甘木にあったこの列島の大使館たる『伊都国』へ到るためのものだったと言えます。

 東南至奴國百里
 『伊都国』に駐在する使者が、周辺諸国の紹介をしています。「又」はついていませんから、伊都国から、それぞれの国を紹介しています。まず、近いところから、『奴国』が東南に百里、およそ5kmの位置にあったとしています。博多から甘木に通じる道は、そのまま東南の方向に伸びています。そして、その道を甘木から、およそ5km行きますと、そこは『旧朝倉町』です。その地に『奴国』があったと考えられます。

 東行至不彌國百里
 次に『伊都国』から東に百里、およそ5kmの位置に『不彌國』があったとしています。甘木から東に5kmとしますと、佐田川沿い『三奈木』のあたりになります。

 南至投馬國水行二十日
 次に『伊都国』から南に水行、つまり、海を二十日行くと『投馬国』があるとしています。それは、陸を経ては行けないということです。甘木にあった『伊都国』から、先ほどの港である『末盧國』、つまり博多から船に乗り、長崎と五島列島の間を通り、南に二十日間かかって行けるような島だということになります。それは、九州ではありません。そのまま南に下ると、そこは、『奄美大島』があり『沖縄』へと連なります。
 その地には「5万余戸」があったとありますから、沖縄がその中心だったのかもしれません。「沖縄」とは、明治以降の呼び名で、それまでは、「琉球国」でした。その「琉球国」という国名も14世紀以降です。隋書に「琉球国」が登場しますが、それは、今の宮古島に存在していたとあります。ですから、三国志の時代には、「沖縄」は、「投馬国」と呼ばれていたと考えられます。


 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
 次に『伊都国』から南の方角に水行、同様に海を十日、または陸を1ヶ月行くと『邪馬壹國』があるとしています。『投馬国』は陸を経ては行けませんでしたが、女王が都する『邪馬壹國』には陸を経ても行けるとあります。同様に、甘木にあった『伊都国』から、南に船で行くと十日間、陸を歩いて行くと1ヶ月だとしています。そうなりますと、九州エリアだということになります。これらに沿って考えますと、『伊都国』、つまり甘木より北ということはあり得ません。南九州だということになってきます。
 その範囲内でということになりますと、そうそう候補地がいくつもある訳ではありません。女王国があった地ですから、それ相応の歴史的拠点としての痕跡が残っていることになります。その検証の末、到達したのは、西都原です。西都原台地には、巨大古墳群があり、その地に歴史的拠点があったことを物語っています。宮崎市の北西にある西都市、ここに魏志倭人伝に登場する女王国であるところの『邪馬壹國』があったと考えられます。


 王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
 王が使者を使わして魏の都や帯方郡・諸韓国に朝遣する時や、又、帯方郡の使者が倭國を訪問してきた時、大勢で港に出迎え、文書や贈り物を調べて女王の所へ届けさせているが、間違いはないとあります。
  『王』と『女王』と記していることから、この列島には、大きくは、二つの勢力があったことが分かります。


 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
 卑弥呼の居た女王国から東へ海を渡って千余里行くとまた国があるが、それも倭種だと述べています。つまり、その女王国の所在地についても述べられていて、卑弥呼は九州にいたと、ここには明記されているのです。 卑弥呼は、九州の中の女王国に居たというのが、この魏書の認識です。

 景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。
 卑弥呼が、景初2年に魏へ使者を派遣します。6月に帯方郡へ行き、郡の使いとともに魏の明帝に朝貢しています。それに対し、明帝は、12月に、詔書と金印や銅鏡をはじめ多くの品々を授けています。その詔書で、皇帝は、卑弥呼に対し、遠いところをよく使者を送ってきたと、また汝の忠孝の表れだと甚だ哀れんでいます。そして、金印紫綬を授け、装封して帯方郡の太守に授けるとあります。

 正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。
 卑弥呼が景初2年(238年)に使者を送ったその2年後、正始元年に、魏は、倭王に使者を派遣し詔書や印綬等を届けています。ここにも、この列島には、倭王と倭女王という2つの勢力が存在していたことが描かれています。
 魏の使者が、倭王の所に出向くことを『詣』、詔書や印綬を渡すことを『奉』と表現しています。
 卑弥呼に対しては、『汝』、『哀』など、見下ろす表現をしていて、あくまで、魏が下賜するという視点となっていますが、倭王に対しては、魏は敬意を払っていたということが分かります。
 また、正始元年の使者が、倭王に銅鏡を届けていますが、それが、出雲の地で発見されています。『景初3年』の銘文の入った銅鏡が、出雲で発掘されたということは、この倭王は、出雲の地にいた王だったということを意味しています。
 一部にその銅鏡が、卑弥呼から渡ったものだと言われることもあるようですが、魏へ景初2年6月に行き12月に帰国した卑弥呼の使者に、景初3年に製造された銅鏡が渡ることはあり得ません。そこで、卑弥呼が景初3年に行ったと言われることもあるようですが、それもあり得ません。卑弥呼の使者は、明帝と会見して、明帝の言葉を記した詔書を授かっているのですが、その明帝は景初3年の正月に亡くなっているのです。
 皇帝が亡くなると、その年は喪に服して、公式行事も行われません。そういった事情は、帯方郡で分かりますし、その時点で、卑弥呼の使者は、皇帝への面会はできないと知ることになります。
 また、景初2年に遼東半島あたりで公孫氏をめぐる抗争が起きていたので、行けていないと言われることがあります。しかし、その使者たちは、遼東半島など通りませんから、別に支障はありません。むしろ、何らかの危険があってはいけないと、帯方郡の使者が随行しています。


 卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩
 卑弥呼が亡くなり、大きな塚、つまりは墓が造られたとあります。女王国は、宮崎県の西都原に存在したと述べましたが、その西都原には、それに相当する古墳があるのでしょうか。
 そこには、300基以上もの古墳のある全国有数の大古墳群があります。そのうち、9割が円墳で、その中に、わが国最大の円墳があります。その円墳には、わずかに方墳部分がついているので帆立貝式古墳とも呼ばれていて、円墳部分の直径は、132メートルもあります。まさに、この列島の女王に相応しい墓です。しかし、現地では、そういった認識はなく、男狭穂塚(おさほづか)古墳と呼ばれています。
 この男狭穂塚古墳こそが、卑弥呼の墓に相当します。しかし、直径が百余歩とありますから、そうなりますと、1歩が1メートル以上になってしまいます。いくら大股だったとしても、1メートル以上は少々無理があります。そこで、調べてみますと、魏国の度量基準では、基準となる足を左右どちらかに決め、その足の歩数で計測していたことが分かりました。
 つまり、現在の2歩が、この魏書における1歩ということになります。大人の1歩がおよそ60㎝あまりといったところですから、当時の1歩が120数cmです。まさしく、その男狭穂塚古墳は、百余歩で、ぴったりと合います。
 卑弥呼が居たのは、南九州でしかあり得ません。そのエリアの中で、大きな拠点があり、この記述に合う古墳は他には見当たりません。この男狭穂塚古墳こそが、卑弥呼の墓であり、同時に、西都原こそが女王国『邪馬壹国』のあった地だということになります。
 魏志倭人伝を検証しましたが、確かに「女王」とか「女王国」といった表現は出てきましたが、「邪馬台国の女王卑弥呼」という表現や概念は、何処にも記述されていませんでした。
 また、朝鮮半島から渡来する道順は、当時の「大使館」的存在である伊都国に到る道順でした。そして、その伊都国の周辺の国として女王国であるところの「邪馬壹国」が紹介されていました。
 つまり、魏志倭人伝には、邪馬台国に到る道順など、どこにも記されていないのです。そして、この列島には、「倭王」と「倭女王」が存在しており、卑弥呼は、「邪馬壹国の女王」ではありましたが、「倭王」でも「邪馬台国の女王」でもないというのが魏書の伝えるところです。



4、後漢書

倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。
 後漢書は、5世紀になって作られています。最初は、漢書にあったように、前漢の武帝の頃から交流があったことが述べられています。
 そして、目を引くのはその次です。各地に王がいたが、その大倭王がいたというのです。この列島に大倭王が存在していたと述べています。キングオブキングということです。そして、その大倭王は、邪馬臺国に居たとあります。中国の史書で初めて、邪馬臺国が登場しました。
 この『臺』の文字が、今のわが国の常用漢字にないため『台』という文字が当てられています。すなわち、後漢書に登場したこの『邪馬臺国』こそが、今のわが国で論じられている『邪馬台国』に他なりません。


 自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王。
 後漢書で初めて登場した邪馬臺(台)国ですが、では、そこには女王卑弥呼が存在していたのでしょうか。
 魏書にも同様の記述がありましたが、後漢書でも女王国から東に海を渡っておよそ50km行くと拘奴國があったと述べています。ここでも、卑弥呼は、九州の地にいたということを再確認しています。
 つまり、後漢書では、大倭王が居するところの『邪馬臺(台)国』を記していますが、その国とは別に、女王国が存在していたと紹介しています。従って、卑弥呼は『大倭王』でもなく、『邪馬台(臺)国』にもいませんでした。
 ほとんど、今のわが国の『常識』かのごとくに思われている『邪馬台国の女王卑弥呼』というフレーズは、全くの誤りだということになります。ところが、歴史教科書でも、まるでわが国の歴史の前提かのごとくに紹介されています。卑弥呼は『邪馬臺(台)国』になど居なかったにもかかわらず、『邪馬台国の女王卑弥呼』という偽りの認識が、周知徹底されています。
 したがって、『邪馬台国の女王卑弥呼』と認識する限り、『邪馬台国』には行き着けません。  卑弥呼は、九州の西都原にあった女王国『邪馬壹国』にいたのであって、そこには大倭王も居なければ、そこは『邪馬臺(台)国』でもありません。
 つまり、ここにこそ、『邪馬台国』へ行き着けないトリックがあったのです。



5、宋書

太祖元嘉二年、 讃又遣司馬曹達奉表獻方物。讃死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國 諸軍事、安東大將軍、倭國王。
 宋書では、所謂「倭の5王」と言われる『讃、珍、済、興、武』について書かれています。そこには、『使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國 諸軍事、安東大將軍、倭國王』と称していたとあります。
 つまり、倭王は、朝鮮半島を制して大きな勢力を確立していました。そして、倭の5王は、後漢書にも登場した大倭王だということも見えてきました。つまり、それらの大倭王が存在していた場所こそが邪馬臺(台)国ということになります。


 順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外。自昔祖禰躬[偏手旁右環]甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國
 その倭王武が、宋の順帝へ昇明2年(478)に、上表文を送っています。それによると、『倭国は中国から遠く、わが祖先は、自ら甲冑を着て山野を駆け巡り、東へ西へと諸国を征し、また海を渡って海北の国もその支配下にしてきた』と述べています。つまり、3世紀から4世紀に大きな力を持つ勢力が出てきたのは、この倭の5王の勢力だったのです。
 その上表文は、さらに、高句麗を討つように奨めています。倭王が、朝鮮半島まで攻め入ったものの、高句麗と対峙していたようです。これは、好太王碑に記されている記述とも合致します。

この宋書には、こういった「倭の五王」について述べていますが、魏志倭人伝にあったような風俗に関しては何も記されていません。



6、隋書

永らく戦乱状態にあった中国も、589年、隋の楊堅によって統一されます。楊堅は、北魏の流れにある鮮卑族でした。鮮卑族は、中央アジア・トルコエリアから渡来した東胡から派生しています。つまり、中国は東胡・鮮卑族によって統一されたことになります。
 その隋は、煬帝の時代、高句麗遠征を繰り返し、民衆への度重なる負担から全土で反乱が巻き起こり、混迷に陥ります。そして、禅譲により、同じく鮮卑族の李淵によって唐が建国されました。国名は、唐に変わりましたが、同じ鮮卑族による支配が続くことになりました。今で言う政権交代といったところでしょうか。
 唐王朝第2代皇帝李世民の時代に登用されたのが、隋書を監修した魏徴でした。癇癪を起こした李世民を200回余りも諫めたという逸話が残っているように、李世民は、すぐに怒る自らを律するために、歯に物を着せぬ進言をする魏徴を登用したとも言われています。その魏徴の働きもあり、李世民の治世は、貞観の治とも称されています。
 では、その魏徴の残した隋書を検証してみましょう。


 倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居、魏時、譯通中國。三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、 但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
 まず、倭国の地は、水陸3千里、つまり、対馬国まで千余里、さらに一大国まで千余里、さらに末盧國まで千余里とありましたから、上陸地点を指しているようです。そして、今までの史書には、倭人としかなかったのですが、夷人という表現が出てきました。
 その都は、邪靡堆、つまり魏書にも登場している邪馬臺であると述べています。


 大業三年、其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜。兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日没處天子無恙」云云。帝覧之不悦、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
 大業3年と言えば、第2代皇帝煬帝が即位したばかりです。その即位の祝賀といった使者に携えられた国書で、煬帝に対し、『あなたが天子なら、私も天子だ、よろしく』といった、対等の意思表示をした内容となっています。また、それ以上に、隋の皇帝は、日が没するところの天子だとしています。彼らにとって日、太陽は、神をも意味します。それが没するということは、隋王朝の没落をも意味しています。ですから、隋王朝は、「蠻夷の書無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ」と激怒してしまいます。

 明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又 至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞。
 その翌年(大業4年)、隋は、倭王のもとに使者清を送ります。ここからが古代史解明の最も重要な場面と言えるかもしれません。ここで言う倭王とは、冒頭にあったように、この列島の都にいる大倭王です。つまり、邪馬臺(台)国に使者が行く事になったのです。
 その使者は、百済、竹島、対馬などを経由して、北九州に上陸しています。そこからまた東に行くと秦王国があり、そこの人々は中国と同族のように見えるが真偽は不明とあります。
 そして、また10余国経ると「海岸に出た」とあります。さて、筑紫国から東へ行き、さらに行くという事は、方向としては東方面へ向かっていると考えられます。南に向かったとはありません。そうなると、本州に渡っているということになります。


 『達於海岸』
 つまり、内陸部を通り、あるいは山地を越えると『海に出た』という表現をしています。海岸沿いを行く人が、こういう表現をすることはありません。では、本州を東に向かい『海に出た』という思いをするとしたらどういう行程なのでしょう。瀬戸内を東にずっと行けば、常に右手に海が見えています。そうなると、考えられるのは、中国山脈を越えたということになります。つまり、出雲街道、あるいは石見街道と呼ばれる道が今でも残っていますが、それを経て日本海へ抜けたのではないでしょうか。
 険しい峠越えをしたところで、一行を歓迎する式典が催されたようです。数百人で出迎え、鼓角が鳴らされたとありますから、相当な歓迎振りだったことが伺えます。そして、10日ほどした頃に、200騎ほどの騎馬隊とともに迎えがやってきます。
 ここで、ようやく邪馬臺国の実像が見えてきました。つまり、中国山脈を越えて日本海側に出て、そこに騎馬隊が迎えにやってきたということは、邪馬臺国は騎馬民族たる出雲の勢力だったという認識に到達することができました。
 出雲には、弥生時代から古墳時代に至るまで王が存在していました。その王は、数々の宝石を身に纏い、また、金銀によって装飾された王冠や刀剣を装着し、馬に乗っていました。その馬も金銀で装飾された馬具で彩られていました。そういった煌びやかな王の遺品が、「出雲版王家の谷」とも言われる古墳群から発掘され、今も「出雲弥生の森博物館」に保管展示されています。


 既至彼都、其王與清相見、大悦、曰:「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝徳並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人 來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。
 いよいよ、大倭王のいる都、つまり邪馬臺(台)国に到着し、その王との会見が記されています。
 大倭王の言葉が、初めて中国の史書に登場しました。その王は、大いに悦んで述べたとあります。
 しかし、最後は、『此後遂絶』で終わっています。この後、国交断絶に至ったようです。
 以上見てきましたように、この隋書には、とても貴重な資料が残されていました。わが国の歴史的資料では、まったく見ることのできないような邪馬臺国の実像に迫ることができました。
 つまり、邪馬臺(台)国への道筋やその実像は、魏志倭人伝ではなく、隋書に示されていたのです。そして、邪馬臺(台)国は、出雲に存在していたということが述べられていました。ここにこそ、我が国古代史における最大の謎に対する答えがありました。
 ところが、今の我が国にはそういった歴史認識は残されていません。なぜなのでしょう。また、どのように、その歴史は歪められていったのでしょう。



7、梁書

倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帶方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絶遠。
 今までの史書では、漢書以来、この列島には多くの国があったという認識を示してきました。ところが、この梁書では、倭人は、呉の太伯の末裔だと自ら言っているとあります。この列島には、多くの民族が渡来してきていますが、そういった歴史を消し去り、『単一民族』だといった認識を示しています。
 今でも、時折、わが国は『単一民族』だという認識が、意識的に流されていますが、そのルーツは、この梁書にあるとも言えます。


 從帶方至倭、循海水行、歴韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名未盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、至邪馬臺國、即倭王所居。
 魏書では、『到伊都国』とあったように、いわゆる当時の『大使館』といった、帯方郡の使者が常駐する『伊都国』に到る行程でした。そして、その『伊都国』から、周辺諸国や女王国が紹介されていました。ですから、周辺諸国を紹介する部分には、『又』は記載されていませんでした。
 ところが、この梁書では、『到伊都国』とあったものが、『至伊都国』とされ、その『伊都国』からの紹介だった記述が、それぞれに皆『又』が記載されています。何と、周辺諸国の紹介ではなく、その諸国を経て女王国へ行く道順に変えられてしまいました。
 さらに、魏書では、女王国の国名が『邪馬壹国』とあったのに、『邪馬臺國』となっているのです。その上、そこは、女王国のはずなのですが、倭王の居する国とされています。魏書においては、女王国とあり、決して倭王のいる『邪馬臺國』ではありませんでした。それは、後漢書でも、『女王国』と『邪馬臺國』とは、異なる国として描かれていました。本来、『邪馬台国』でもない『邪馬壹国』を『邪馬臺(台)國』だとすり替え、その上、全く異なる道順に描かれているのですから、こういった認識では永遠にたどり着けるはずもありません。
 この梁書では、今までの史書によって伝えられている歴史が大きく歪められています。ここから我が国の歴史の偽造が始まったとも言えます。
 隋や唐は、鮮卑の流れにあります。北東アジアにいた東胡が匈奴に滅ぼされた時、烏丸と鮮卑に別れます。唐王朝は、鮮卑でもあり東胡でもあります。一方、出雲王朝の勢力は匈奴の流れにあります。また、鮮卑も力を大きくし、匈奴を征服するなど、これら東胡・鮮卑と匈奴は激しい民族抗争を繰り返してきているのです。
 ですから、東胡・鮮卑たる隋や唐と、匈奴たるこの列島の出雲王朝との間には、根深い民族的対立がありました。
 つまり、唐王朝の勢力からしますと、民族的対立をしていた匈奴の流れにある出雲王朝の歴史を消し去ろうという動機が、歴史改ざんの背景にあったと考えられます。
 梁書の記述は、そういった視点で貫かれています。


 至魏景初三、公孫淵誅 後卑彌呼始遺使朝貢、魏以爲親魏王、假金印紫綬。正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。晋安帝時、有倭王賛。賛死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。 興死立弟武。齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。高祖即位、進武號征東(大) 將軍。其南有侏儒國、人長三四尺、又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。
 魏書において、卑弥呼の使者が朝貢したのは、景初2年の6月のことでした。その12月に使者は様々な品々と合わせて金印や銅鏡を授かって帰国したとありました。ところが、ここでは、景初3年となっています。今まで検証してきたように、景初2年か3年かということは極めて大きな問題を含んでいます。今のわが国で『景初2年』に行った卑弥呼の使者を『景初3年』だと改竄するルーツは、実はここにありました。この列島の歴史から出雲王朝の存在を抹殺するために、唐王朝が改竄していたのです。
 ですから、ここでは、正始元年に魏が倭王に使者を送ったことを消しています。
 同じように、卑弥呼が亡くなったことも記されていますが、魏書ではその次に女王となったのは壹與とありました。ところが、壹與を臺與と名前すら変えられています。『邪馬壹国』を『邪馬臺國』と、『壹與』を『臺與』と、明らかに『壹を臺に変えようとする意思』があったということになります。

 この列島では、その後、武帝を始め、倭の5王と言われる大倭王が大きな勢力を持ち、中国王朝と対峙するほどになります。ところが、ここでは、そういった歴史も消し去り、中国の支配下にあったとする記述にしています。そして、続けて読むと、まるで卑弥呼の女王国と倭の5王とは同じ系統の王だということになってしまいます。つまり、倭の5王や隋書に出てきた王は、卑弥呼の末裔となってしまいます。
 さらに、倭の5王の次に、卑弥呼の国の南にあった国々を紹介しています。そうなりますと、倭の5王は、卑弥呼の地に存在したことになってしまいます。
 徹底して、出雲王朝の姿を消し去ろうとしています。


 文身國、在倭國東北七千餘里。人體有文如獸、其額上有三文、文直者貴、文小者賤。土俗歡樂、物豊而賤、行客不齎 糧。有屋宇、無城郭。其王所居、飾以金銀珍麗。繞屋塹、廣一丈、實以水銀、雨則流于水銀之上。
 この梁書には、今まで何処にも出てきていない『文身国』なる国名が登場しています。冒頭に、倭は、帯方郡から1万2千里にあるとしています。つまり、西都原の地を認識していたことになります。そして、この文身国なる国は、その倭国の東北7千余里にあるとしています。
 では、宮崎県西都原から東北7千余里、つまり、およそ350kmにある場所はどこになるのでしょう。そこは、まさしく、出雲の地、この列島の都『邪馬臺國』で、それを消し去り、『文身国』なる国を創作しています。
 その文身国では、全身に獣のような文、つまり、入れ墨をしているとあります。また、その額には、『三』という文字を入れているともあります。『三』は、出雲の象徴です。島根半島の東端には、全国の『えびす神社』の総本社の美保神社がありますが、そこの神紋は『三』です。さらに、その国の人々は豊かだが、賎しいのでお客があっても食べ物を出してもてなすといったことをしないとも述べています。その王に至っては、金銀財宝に彩られており、家の周囲には水銀が雨ざらしになっているとしています。
 この一連の記述は、極めて恣意的な表現に満ち溢れています。獣のような入れ墨をした賎しい人間がいて、その王は放蕩三昧だとしています。つまり、散々悪者に仕立て上げようとしています。
 その背景には、民族的な対立があったのかもしれませんが、どうもそれだけではなさそうです。当時、水銀は、今の石油に相当するほどの貴重な資源でした。唐王朝は、それに食指が伸びていたようです。つまり、この列島から豊富に産出されていた水銀鉱脈を手に入れようとしていたのです。それを奪うために、それを手中にしていた出雲王朝を悪者に仕立て上げたと考えられます。今でもそうですが、ある勢力や国を執拗に貶めようとするのは、それなりの目論見があるからです。
 梁書は、唐王朝の中にこの列島の歴史を意図的に歪めようとする勢力が出てきたことを示唆するものとなっています。明確な意思で以って歴史を改竄しています。しかし、唐王朝の第2代皇帝李世民までは、魏徴といった賢明な側近がいたことで、そういった改ざん勢力が台頭するまでには至らなかったようですが、第3代皇帝李治の時代になると唐王朝の治世は一変します。



8、北史・南史

<北史>

倭國在百濟新羅東南、水陸三千里、於大海中、依山島而居。魏時譯通中國三十餘國、皆稱子。夷人不知里數、但計以 日、其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下、居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。又云、去樂 浪郡境及帯方郡、並一萬二千里、在會稽東、與tan[偏人旁右澹]耳相近。俗皆文身、自云太伯之後。計從帯方至倭國、 循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里、始度一海、又南千餘里度一海、闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名末盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、 至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國。即[イ妥]王所都。漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安 帝時又遣 朝貢、謂之[イ妥]奴國。靈帝光和中、其國亂、遞相攻伐、歴年無王。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、國人共立爲王。無夫有二男子、給王飲食、通傳言語。其王有宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。爲法甚嚴。魏景初三年、公孫文懿誅後、卑彌呼、始遺使朝貢、魏主假金印紫綬。正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相 誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命、江左歴晉宋齊梁、朝聘不絶、及陳平、至開皇二十年、 [イ妥]王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩[奚隹]彌、遣使詣闕。
 北史は、隋書を基本にしています。しかし、一部分付け加えられたり、削られたり、梁書以上に歴史が偽造工作されています。  上記の赤い字の部分が隋書で、その中に青い字の部分が挿入されています。梁書にもありましたが、本来『邪馬壹国』だったものが、『邪馬臺國』に変えられ、さらにとんでもない場所へ行くような意味不明の道順となっています。つまり、出雲にあったこの列島の都『邪馬臺(台)國』の隠蔽であり、女王国であるところの『邪馬壹国』を、この列島の大倭王がいた『邪馬臺國』にすり替えています。  その次に挿入されている青い字の部分も同じ考え方によるものです。  魏が正始元年に倭王へ使者を送ったことを消し去り、隋書に登場していた倭王も、卑弥呼の系列の王という表現にしています。  この列島には、倭王と倭女王という2つの勢力があったことを、倭女王のみが存在していたという歴史に改竄しています。そして、梁書と同様に、次の女王も壹與だったのに臺與とされています。  極めて巧妙な歴史の改竄です。

 大業三年,其王多利思比孤遣朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」國書曰:「日出處天子致書日沒處天子,無恙。」云云。帝覽不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」明年,上遣文林郎裴世清使倭國,度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,迥在大海中。又東至一支國,又至竹斯國。又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於倭。倭王遣小德何輩臺從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多?從二百餘騎,郊勞。既至彼都,其王與世清相見、大悦、曰:「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝徳並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人 來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。
 隋書に都合よく加筆されているだけではありません。ある一部分が、切り取られてもいます。それは、隋の使者清と大倭王との会見部分です。上記の黒字の部分が隋書にはあるのに、この北史では削り取られているのです。  そうなると、どういう意味になるのでしょう。隋の使者清が大倭王のいる都に着くと、王は使者の清と共に貢物を持ってやってきたということになります。  なんということでしょう、邪馬臺國の王が自ら朝貢してきたという意味になるのです。唐王朝は、出雲王朝の姿を消そうと、このような、辻褄の合わないような改竄までしているのです。


<南史>

 倭國、其先所出及所在、事詳北史。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往?。人種禾稻、紵麻、蠶桑織績。有薑、桂、橘、椒、蘇。出黑雉、真珠、青玉。有獸如牛名山鼠、又有大蛇呑此獸。蛇皮堅不可斫、其上有孔、乍開乍閉、時或有光、射中而蛇則死矣。物産略與?耳、朱崖同。地氣?暖、風俗不淫。男女皆露?、富貴者以錦?雜采為帽、似中國胡公頭。食飲用?豆。其死有棺無槨、封土作家。人性皆嗜酒。俗不知正歳、多壽考、或至八九十、或至百歳。其俗女多男少、貴者至四五妻、賤者猶至兩三妻。婦人不??、無盜竊、少諍訟。若犯法、輕者沒其妻子、重則滅其宗族。

 晉安帝時、有倭王讚遣使朝貢。及宋武帝永初二年、詔曰:「倭讚遠誠宜甄、可賜除授。」文帝元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死、弟珍立、遣使貢獻、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王、表求除正。詔除安東將軍、倭國王。

 南史も北史と同様、宋書を基本にしていますが、他の資料を加えることにより、文章全体の意味を違うものにしています。
 上記の赤い字の部分が宋書で、青い部分が挿入された文章です。まず、女王国のことを描き、宋書に登場する倭の5王がまるでその子孫であるかのように後に続きます。
 唐代の梁書や北史・南史においては、卑弥呼のいた女王国が邪馬臺国であり、その後の倭王は卑弥呼の子孫であるかのごとくに描かれています。そして、出雲王朝を消し去った地に『文身国』を創作しています。
 唐代より前の史書には、こういった記述はありませんでした。唐によって、徹底した歴史の改竄が行われています。そして、この北史・南史は、659年に唐王朝の正史として公認されています。つまり、唐王朝そのものが歴史改竄勢力に陥ったことを意味します。それまで伝えられていた歴史を改竄し、自らに都合よく創作するのが彼らの手法です。
 したがって、間違っていたのは、魏志倭人伝ではなく、歴史を改竄した梁書であり、北史・南史の方だったのです。ところが、今の我が国では、逆に改竄された歴史がまるで本当の歴史かのように思われています。



9、旧唐書

倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。
 冒頭、倭国とは古の倭奴国なりで始まっています。倭奴国は漢から金印を授かっていますし、『世與中國通』とあるように、中国との交流が深かったことを伝えています

 貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、敕所司無令歳貢、又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而
 618年に李淵が、隋を滅ぼし唐を建国しますが、貞観5年(631)に倭国が朝貢してきたとあります。隋王朝とは、国交断絶といった状況でしたし、大陸の王朝との交流を望んでいたのかどうかは分かりませんが、出雲王朝は、第2代皇帝太宗李世民の時代に使者を送っています。唐の世情も落ち着き、とりあえずのごあいさつといったところだったのでしょうか。
 ところが、太宗は、あまり友好関係を望んではいなかったのか遠方だから来なくてよいと、わざわざ使者を送ってきます。その使者は、倭国の王子と礼を争って朝命を述べることなく帰国しています。
 先の隋との関係においても、出雲王朝は、属国扱いされることに対し、反発していました。唐王朝の使者は、朝命を伝えるという立場で来ていますから、出雲王朝は、唐王朝に命令されることになります。
 出雲王朝は、当時で400年以上にもなる歴史と伝統を持っています。その出雲王朝が、いくら大陸の王朝とは言え、最近誕生したばかりの国から、命令されたり属国扱いされる謂れはないと思ったとしても当然のことかもしれません。


 至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
 そして、貞観22年(648)に、また使者を送っています。
 ここで、中国の史書に、初めて日本国が登場します。その使者は、日本国の成り立ちに関する、重要な事柄を述べています。
 『日本国は、倭国の別種なり』とあります。『倭国は、古の倭奴国なり』とありましたが、日本国はそれとは別の民族であるという認識を示しています。
 また、倭国という名前が良くないので日本国に改めたともあります。倭というのは中国王朝から見た蔑称です。大陸に王朝が誕生して以来、蔑視されてきているこの列島に対する認識を改めよと唐王朝に突きつけています。
 まず、日本国と国名を改めた動機が述べられています。日本国は、日の辺りにあったので日本国としたとあります。隋書には、『天』をもって兄となし、『日』をもって弟となすとありました。
 それは、国家的象徴と、実質的支配者を意味していました。今で言う、皇居と永田町の関係でもあります。当時で言えば、高層の神殿のあった出雲大社の地と、大国主命のいた出雲国庁跡地、東出雲の地ということになります。そこが、『日本』と呼ばれていたので、国名を『日本国』としたと述べています。
 その東出雲にある熊野大社には、出雲王朝の始祖神であるスサノオ尊が祀られ、『日本火之出初之社(ひのもとひのでぞめのやしろ)』という名称が、今に伝えられています。その南には、日野(ひの)とか日南(にちなん)といった地名も今に残されています。日という地域が東出雲にあったことが伺われます。
 日本(ひのもと)は、東出雲の地に古くからあり、今は、『日本(にほん)』と呼ばれていますが、当初、その国名は『日本(ひのもと)』でした。
 さらに、日本国は、古くは小国だったが、倭国の地を併せたともあります。これは、宋書にあったことを意味しているようです。つまり、倭王武が、祖先は自ら甲冑を着て山野を駆け巡り国内から朝鮮半島まで制圧していったと上表文にありました。
 このように新生『日本(ひのもと)国』の紹介がされ、今は倭国などと蔑まれて呼ばれているが、これからは日本国と改めたからよろしくと唐王朝に伝えています。
 しかし、中国にしてみれば、出雲王朝は、北方騎馬民族であるところの『大国』、あるいは『邪馬臺国』だと分かっているでしょうから、にわかには信用ならないと思ったようです。
 いずれにしても、中国から呼ばれていた倭国に変わって日本国と付けられたのは、7世紀中ごろで、中国から付けられたのでもなく、古くから東出雲にあった地名でもありました。そして、大陸の王朝からの蔑視や属国的扱いとの戦いの中から生まれた、輝かしい崇高な国名でもあったのです。



10、新唐書

日本、古倭奴也。
 新唐書になりますと、一転して日本は古の倭奴なりとされています。
 これは、どういうことなのでしょう。
 倭奴とは別種とまで記していた日本を、古の倭奴だと、古くから中国のテリトリーにあったと変えています。
 今までの歴史や史書を振り返れば、日本が古の倭奴だなどあり得ません。むしろ、そうでは無かったというのが旧唐書までの中国の認識でした。


 其官十有二等。其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。
 官位が12等あるとか、その王の姓が阿毎氏だと隋書に出てきた王のことを記しています。ところが、その王が自ら言うのには、初めの主は天御中主で彦瀲に至るまで32世、皆『尊』を号として筑紫城に居するとあります。今までこのような内容が過去の史書に出てきたことはありませんでした。その王と隋王朝の使者は、邪馬臺であるところのこの列島の都に来た折に会談しています。その時会談した内容にこのようなことは記されていませんでした。むしろ、唐は、北史でその会談の内容を削除したくらいです。
 また、『朝命は伝えたから塗を戒めよ』と使者の清が述べるくらいですから、決して和やかな会談だったとは思えません。使者清との会談が初対面で、その後に国交が断絶しているので、その王と隋にそれ以上の接点が、あったはずがありません。
 自らが都合よく創作し、それをあたかも倭国の王や使者が述べたことにしています。
 さらに、彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治するとあります。これは、いわゆる神武東征、まったくの記紀認識そのものです。


 次曰綏靖、次安寧、次懿德、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。仲哀死、以開化曾孫女神功為王。次應神、次仁德、次履中、次反正、次允恭、次安康、次雄略、次清寧、次顯宗、次仁賢、次武烈、次繼體、次安閑、次宣化、次欽明。
 この新唐書には、神武以来平安朝の頃までの天皇の名前が記されています。わが国では、これだけの天皇が続いていると述べているのですが、過去の史書には神武天皇を初めとしてどの天皇も誰一人として名前が登場していません。また、天皇なる者がいるということすらどこにも出てきませんでした。ところが、旧唐書にもまったく姿を現さなかった天皇の系図が、いきなり新唐書には出てくるのです。
 天皇という呼称もシステムも、西暦660年、唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天が、当時の道教の理念を基に作り出したものです。ですから、それ以前に天皇という名称はこの世には存在していません。ましてや、この列島になどあるはずもないのです。
 また、今までの史書に登場してきた卑弥呼も女王国も、あるいは、邪馬壹国、邪馬臺国といった国々の名前も新唐書には出てきません。
 いったいどういう歴史なんでしょう。


 欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達。次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女雄古立。次舒明、次皇極。
 ここには、その実態が記されていると言えます。まず、欽明の11年が梁の承聖元年に相当すると述べています。つまり、記紀にあるところの年号を、中国王朝の年号とすり合わせをしていたということになります。そして、用命天皇が目多利思比孤だとしています。その用命天皇は、隋の開皇末に初めて中国と通じたというのです。このようにして、この列島の歴史が創作されていたということです。つまり、創作された歴史の辻褄合わせをしていたと、ここでは述べています。
 新唐書では、今まで以上に、歴史の改竄が行われていたことを意味しています。それまでは、大陸からの視点でこの列島の歴史を改竄していますが、新唐書では、大陸を追われてこの列島に逃避してきた唐王朝の勢力の視点で描かれています。つまり自らが、遠い太古の時代からこの列島を支配していたかのような歴史に作り替えています。ですから、数多くの国があったことも、この列島が蔑視されていたことも、この列島を支配していた卑弥呼も邪馬台国も何も登場しないのです。もう何でもありといった状態です。本来の歴史などすっかり消されて、創作劇のごとくです。


 咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。或云日本乃小國、為倭所并、故冒其號。使者不以情、故疑焉。又妄夸其國都方數千里、南、西盡海、東、北限大山、其外即毛人云。
 咸亨元年(670)に高句麗を平定したのを祝して使者が来たとあります。そして、旧唐書にあった日本国の紹介文がありますが、やはり創作の跡が見られます。日の出る所に近いので日本という国名にしたとなっています。これは、日本国命名の根拠として今もよく言われているところです。
 旧唐書では、決してそうではありません。


 『以其國在日邊,故以日本為名』(旧唐書)
 邊とは、辺、あたりという意味です。つまり、日のあたりにあったので日本という名前にしたということです。日の出るところに近いという意味は何処にもありません。日という地域にあったのでそういう名前になったと読めても、日の出るところに近いとは読めません。
 日という地域が東出雲にあったことも、大陸の王朝からの蔑視や属国的扱いとの戦いの中から誕生したことも消し去り、別物の歴史に作り替えています。
 また、日本は小国で、倭に併合されたとなっていますが、これも全然違います。


 『日本舊小國、併倭國之地』(旧唐書)
 このように旧唐書では、日本が倭国の地を併合したとなっています。
 新唐書の記述は、宋書にあった記載などともまるっきり逆で、旧唐書とも全く異なる歴史を創作しています。唐王朝によって、魏志倭人伝などそれまでの歴史が改竄されたように、旧唐書の記述をすり替えて全く別物の歴史にしています。
 新唐書は、大陸を追われてこの列島にやってきた唐王朝の勢力の視点で、さらに都合よく改竄されています。ところが、その創作劇かといった歴史が我が国の歴史だとされています。我が国の歴史が矛盾だらけの原因はここにありました。



<終わりに>
 我が国の成り立ちの歴史に、矛盾や謎が多いのは、唐王朝の勢力によって歴史が原型を留めないほどに徹底して改竄されていたからに他なりません。
 邪馬台国の謎や我が国の古代史を検証する上では、この唐王朝によって歴史が改竄されていることが認識できなければ、決してその解明に至ることは不可能です。
 今回、字数の関係もあり、概略のご紹介となりましたが、インターネットでも詳細を公開していますので、そちらもぜひご参照ください。




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