この説文は、2018年12月、全国邪馬台国連絡協議会の「私の邪馬台国論」に投稿し、掲載されたものです。

   

 邪馬台国に到達するために

                       みんなで古代史を考える会  西 山 恒 之
                                 
 
 江戸時代、新井白石や本居宣長によって邪馬台国の検証が始められて以来、いまだに我が国の邪馬台国をめぐる議論は混迷したままにあると言わざるを得ません。では、どうして、そこまで研究されてもなお、明快な結論に到達できていないのでしょう。
 以下、いくつかの問題点を検証してみましょう。

1、『邪馬台国の女王卑弥呼』は架空の概念
 このフレーズは、我が国の歴史にあっては、前提かのごとくに思われています。しかし、魏志倭人伝のどこにもそういった記述もなければそのような概念もありません。むしろ、魏志倭人伝にも後漢書にも、倭王と女王とが登場しています。後漢書では、大倭王が邪馬台(臺)国に存在しているとあり、さらに、その邪馬台(臺)国とは別に女王国が存在していたともあります。つまり、卑弥呼は、あくまでも女王国にいたのであって、邪馬台(臺)国になど存在していなかったのです。『邪馬台国の女王卑弥呼』とは架空の概念だったのです。
 ところが、我が国のほとんどの情報の基本が、『邪馬台国の女王卑弥呼』という考えを基にしているので、どうしてもその概念から逃れられないようです。ほとんど洗脳状態にあると言っても過言ではないでしょう。
 邪馬台国や卑弥呼について検証しようとする場合、まずは、卑弥呼は、邪馬台国には存在していなかったというところから出発しなければ、邪馬台国に到達することは不可能です。
 
2、魏志倭人伝には邪馬台国への道順など記されていない
 朝鮮半島からこの列島に至る道順が魏志倭人伝に登場します。我が国では、これが邪馬台国への道順だと思われています。しかし、魏志倭人伝には、当時の大使館的役割を担っていた『伊都国』へ到達するための道順が記されています。そして、その伊都国から周辺の国々が紹介されているに過ぎません。その中に女王国であるところの邪馬壹国が紹介されているだけです。決して邪馬台(臺)国などどこにも登場していませんし、ましてや、その道順など全く触れられてもいません。
 ほとんどの研究者も含めて、我が国では魏志倭人伝に邪馬台国への道順が描かれていると考えられていますから、到底邪馬台(臺)国になど到達できるはずもありません。

3、魏志倭人伝には、国名や距離、方角も含めてその記述に間違いはない
 魏志倭人伝の記述には、特に問題はありません。ところが、編纂者の西晋の陳寿は本来「臺」と書くべきところを「壹」と書き間違えた、あるいは東であるのに南だと勘違いしたなど、魏志倭人伝の記述がほとんど好き勝手に「解釈」されています。決して、年号や人名も含めて、魏志倭人伝の記述には、間違いも勘違いもありませんし、その記述からかけ離れた議論をしても全く無意味です。ただただ、架空の世界に陥るだけにすぎません。それゆえに、邪馬台国は、全国どこでも候補地が創り出されているのです。

4、邪馬台国への道順は隋書にあり
 では、いったい邪馬台国への道順はどこに書かれているのでしょう。それは、隋書にありました。倭王が隋に使者を送り、その時に届けられた国書の記述に隋王朝は激怒し、その翌年、隋は、倭王のところに使者を送ってきました。つまり、この列島の都に使者が訪れることになり、その足取りが記載されていました。その記述から、当時の都「やまと」、すなわち「邪馬台国」は、出雲に存在していたことが判明しました。また、魏書の頃からその場所もその勢力も変わっていないともありました。この隋書にこそ、邪馬台国を解明する糸口があったのです。

5、歴史を改竄した唐王朝
 魏志倭人伝、後漢書、宋書、隋書には、邪馬台国をはじめ卑弥呼などとの関係も含めて、そこにはこの列島のことが正確に記されていました。ところが、唐王朝の時代、それらの記述がことごとく書き換えられ、全くあり得ないような史書が作成されました。梁書、北史、南史では、魏志倭人伝、後漢書、宋書、隋書の記載内容がことごとく書き換えられています。つまり、歴史が改竄されたのです。さらに、唐王朝は、907年に朱全忠らによって滅ぼされ、この列島に逃避してきます。その残党勢力の視点で、さら原形をとどめないほどに、この列島の歴史は改竄されてしまいました。それが、新唐書に残されています。そこにあっては、旧唐書の記載がことごとく書き換えられています。こういった歴史の改竄こそが、今の我が国の歴史が混迷状態にあることの原因となっています。
 我が国の歴史は、魏志倭人伝後漢書宋書隋書旧唐書の記載に立ち返り、改竄の歴史から本来の歴史に戻さなければ、邪馬台国だけでなく、本当の歴史を認識することもできません。

6、この列島を占領征服した唐王朝 
 唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天の時代、663年11月18日、旧暦10月10日に、この列島は唐王朝によって占領征服されてしまいました。その経過は、資治通鑑に残されています。そして、先にも触れたように、907年、唐王朝は滅ぼされ、この列島に逃避してきます。つまり、この列島は、663年以降、今に至るまで唐王朝の勢力によって支配されてきています。唐(藤)を源(原)にするという意味で彼らは、藤原氏を構成しこの列島を今に至るまで支配し続けています。ですから、唐王朝の勢力によって改竄された歴史が、今をもってこの列島の人々に押し付けられ、その偽りの歴史で洗脳され続けているのです。
 その背後には、東胡・鮮卑と匈奴という激しい民族抗争がありますが、そういった歴史もこの列島の人々には一切秘匿されています。
 紀元前に中東から渡来したトルコ系の民族は、中国王朝からは「胡」と呼ばれ、満州エリアに「東胡」、モンゴルエリアに「匈奴」が、その西に「月氏」が拠点を構えました。そして、東胡は、匈奴に滅ぼされ鮮卑と烏丸に分裂しました。その鮮卑によって隋が建国され同じ民族が唐を建国しました。一方、当時、この列島を支配していた出雲王朝は、匈奴の勢力でした。ですから、この列島は、663年以降は、東胡・鮮卑によって征服されたままということになります。

7、唐王朝再興を目指す我が国の支配勢力
 この列島に流れてきた唐王朝の勢力にとって、この列島は、倭人あるいは匈奴の暮らす島でしかありません。ですから、必ず大陸に支配者として舞い戻り、唐王朝を再興せよと古事記に指令が残されました。それが、「因幡の白兎」の逸話です。彼らは、この列島の人々を徹底的に騙して、大陸に戻るために利用せよというその指令通りに動いています。秀吉の頃、明治維新以降、そして今現在も大陸侵略に邁進する動機は、唐王朝の再興にありました。ですから、彼らにとっては、この列島に暮らす庶民は、自分たちが肥え太るための家畜程度にしか思っていません。ましてやこの列島の環境がどうなろうとお構いなしで、沖縄の海を埋め立てて大陸侵略のための拠点を築こうとします。

8、古代史の解明は今を理解することにあり
 663年以降、この列島の人々は、鮮卑唐王朝の勢力によって、その徹底した隷属下に置かれてきました。ほとんど、無権利な奴隷状態にありましたが、戦後現憲法によって、ようやくその奴隷状態から解放されました。しかし、支配関係には変化はなく、今、再び改憲によって奴隷状態に戻されようとしています。
 この列島の歴史を解明することは、今を理解することでもあります。徹底して、偽りの歴史で洗脳された人々が、本当の歴史を認識しないように、今も唐王朝の勢力から徹底した統制が行われています。
 唐王朝の勢力によって改竄されたこの列島の歴史を改め、魏志倭人伝、後漢書、宋書、隋書、そして旧唐書や資治通鑑にある歴史、そこにこそ史実があり、そういった理論的立地点に立てるかどうかが、本当の歴史を認識できるかどうかの分岐点となります。
 
 


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