天皇に滅ぼされた邪馬台国
みんなで古代史を考える会 西 山 恒 之
はじめに、
今現在、我が国には天皇というシステムが存在しますが、一方、邪馬台国の存在は、まぼろしだったかのごとくに、極めて不可解な認識にあります。しかし、そのどちらにおいても、本当の歴史が秘匿され、あるいは捏造されているというところでは共通しています。
その秘められていた歴史を紐解くことで、我が国にかつて存在していた邪馬台国は、天皇によって滅ぼされ、同時にこの列島全域も彼らによって占領征服されて今に至るという驚くべき事実が浮かび上がってきました。
唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天は、西暦660年、道教の理念に基づき、皇帝を天皇に皇后を天后に改称しました。このことは、我が国では、天皇の祖先が「天照」として伝えられています。武則天の本名・幼名は武照です。武則「天」たる武「照」でまさしく天照です。また、武則天は自らが即位して聖神皇帝を名乗ります。つまり、聖「神」皇帝たる「武」則天で初代天皇とされている神武です。
そして、西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、この列島の都でもあった邪馬台国は、李治や武則天ら唐王朝によって占領征服され、この列島からも歴史からも抹殺され、その結果、捏造された歴史だけが残されてしまいました。
その李治の諡号は、『天皇大聖大弘孝皇帝』で、中国皇帝制度にあって唯一天皇を名乗っています。つまり、邪馬台国は天皇に滅ぼされていたのです。また、我が国の天皇で天の文字が付くのは「天智」と「天武」だけです。つまり、天皇たる李治で「天智(治)」、天后たる武則天で「天武」を示唆しています。天智が兄で天武が弟とされているのは、肉親関係ではなく、李家が宗家で武家は外戚であるという権力構造における上下関係を意味しています。兄貴分、弟分といったところです。
ここに、我が国に存在する天皇のルーツがあり、我が国の古代史から今に至るまでの多くの謎や矛盾の根源があります。
ということで、今回は、天皇や邪馬台国などの民族的背景を遡り、今の我が国がどのように形作られてきたのかを検証してみましょう。
1、大陸から渡来した「山戎」
中国最古の地理書とも言われている山海経には、中国東北部にいた「山戎」という遊牧民族が、紀元前663年、南下して燕との抗争になり、その戦いに敗れたとあります。そして、彼らは、燕の支配下に置かれたり、この列島にも逃避してきました。
「倭属燕」という記述も残されており、その後も燕との関係があったことが伺えます。
朝鮮半島の東側から船出すると、海流の流れに乗って山陰エリアに到達します。
島根半島の東端には、全国に3385社ある事代主神系ゑびす神社の総本社である美保神社があります。そこは、この列島にやってきた山戎の上陸地点でもあり、まずはそこに拠点を構えた彼らにとっては歴史的聖地とも言えます。
今は、本州とつながって島根半島と呼ばれていますが、当時は、島であり、トンボが交尾をしているような形状の島だということで、万葉集では『あきづ島やまと』と詠われています。つまり、この列島における「山戎」の歴史的拠点で都でもあるという意味でその地が『やまと』と呼ばれるようになった、これが『やまと』の語源であると考えています。
従って、古代のこの列島の都『やまと』は、奈良盆地ではなく今で言うところの島根半島、当時のあきづ島にありました。
2、中東から渡来した胡の勢力
紀元前4世紀頃、アレキサンダー大王の東征から逃れるように、中央アジアから東アジアに遊牧騎馬民族がやってきました。そして、満州エリアに「東胡」、モンゴルエリアに「匈奴」、その西に「月氏」が、それぞれ拠点を構えます。
彼らは、中国王朝から「胡」と呼ばれ、激しい民族間抗争を引き起こします。紀元前3世紀頃、匈奴と東胡との間で大きな戦いになり、東胡の王は殺され、東胡は鮮卑と烏丸に分裂します。この戦いは、後世にわたって激しい抗争へと続くことになります。
そして、東胡は、この抗争に敗れ、その一部がこの列島にも逃避してきます。
3、東胡の勢力による列島制圧
先にこの列島に渡来していた山戎は、高度な技術や文化をこの列島の人々にもたらし、その恩恵に感謝して全国に神社を構え、七福神の筆頭の神である「えびす様」として今に至るまで称えられています。
ところが、この列島にやってきた東胡の残党勢力は、山戎の聖地「やまと」を制圧し、出雲エリアに拠点を構えます。また、その地は、この列島で最良の鉄鉱石が産出され、製鉄の勢力にとっては、最も重要なエリアでもありました。彼らは、その製鉄の力でもって、この列島で次第に勢力を大きくし、在来の勢力を支配下に置くようになります。その彼らの痕跡が、4隅突出型墳丘墓です。
この列島が、東胡の残党勢力の支配下に置かれたことは、後漢書からも伺えます。
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
安帝の永初元年(107)に、倭國王の帥升等が、生口百六十人を献じて、朝貢したとあります。107年といいますと、4隅突出型墳丘墓が巨大化する頃で、東胡の残党勢力が、この列島で支配力を強めていた時期に相当します。
つまり、後漢書に登場している「倭國王帥升」とは、この列島を支配下にした東胡の勢力の王だと考えられます。
そして、倭国の王が、奴隷を160名も献上しています。数名の「生口」を献上したという記述はありますが、100名を超えるというのは他に見ることはありません。自分こそが、倭国の王で、列島を支配下にしていることを知らしめる意味の160名だったのかもしれません。
しかし、それは、逆に、この列島の国々からは尊敬や崇拝はされていなかったということの証明でもあります。ほぼ、すべての国々から男女1名ずつを拠出させるとしたら、それなりの強制力が必要となります。支配下に置かれた国々にとっては、大きな怒りや悲しみをもたらしていたと考えられます。さらに、そんな東胡の勢力ですから、毎年奴隷を拠出させていたのかもしれません。これが、古事記における「あしなづち・てなづち」が毎年娘を連れていかれることの意味だとも考えられます。そんな支配は、大変な苦痛でしかありません。
つまり、「山戎」の渡来は、この列島に福をもたらし、福の神「えびす様」として後々にまで奉られていますが、東胡の勢力の渡来は、決してこの列島の人々に福をもたらすものではなく、恐怖や悲しみ、そして苦痛の強制だったことでしょう。
ですから、東胡を奉るような神社や遺跡は、ほとんど見かけることはありません。
4、匈奴と在来の勢力との連合国家誕生
一方、大陸においては、匈奴に敗れた東胡の末裔である鮮卑が強大化し、紀元2世紀頃になりますと、逆に鮮卑が匈奴を滅ぼし、北アジア一帯は鮮卑の支配するところとなります。
この頃、匈奴の一部が、それらの攻撃を逃れてこの列島にやってきます。
当時、この列島の人々は、先に渡来した東胡の厳しい制圧下に置かれていました。その支配下にある在来の人々とスサノオ尊を中心とする匈奴の勢力は、共同して東胡の圧政を倒そうと大きな戦いに発展します。これが、およそ西暦150年頃から40年間にわたる「倭国大乱」として中国の史書に残されました。
その戦乱を制したのが、スサノオ尊であり匈奴の勢力でした。このことは、「八岐大蛇」の逸話として残されています。スサノオ尊が倒した八岐大蛇とは、当時大蛇のごとくに残忍な支配勢力だった東胡の勢力のことを意味しています。八岐とは、古事記にもあるように、「本州・四国・九州・対馬・壱岐・隠岐島・淡路島・佐渡島」の八岐、つまり8の拠点です。この列島全域を支配下にしていた東胡の勢力を、スサノオ尊が在来の勢力とともに駆逐したことが、その逸話の伝えるところです。
従って、東胡の勢力の墓である4隅突出型墳丘墓は、これ以降、造られることはなくなりました。
そして、スサノオ尊は、在来の勢力の象徴である「卑弥呼」を国家的象徴とし、自らはそれを支える実質的支配者とする国家体制を築きました。
この国家的象徴であった卑弥呼の国が「一国」つまり「邪馬壹国」、実質的支配者であったスサノオ尊の国が「大国」つまり「邪馬臺国」として中国の史書に残されました。
その邪馬壹国は、宮崎の西都原に存在していました。その壹は、日向国一之宮の都農神社の神紋(一)として伝えられています。また、卑弥呼の墓は、西都原古墳群の中にある我が国最大の円墳「男狭穂塚古墳」として今にまで残されています。
そして、実質的支配者であったスサノオ尊の国が「大国」つまり「邪馬臺国」で、出雲に存在していました。その大国の王が「大国主命」であり、後々にまで引き継がれていきました。同様に、出雲にある数多くの神社で神紋(大)が伝え残されています。
この象徴(一)と(大)という文字を合体させると(天)という文字になります。そして、(一)が上で、(大)は下に位置します。スサノオ尊や匈奴の勢力は、この列島を征服した覇者です。しかし、スサノオ尊は、自らの勢力は、この列島には後からやって来たのだと、あくまで、在来の先住勢力を上に称えます。それを国家体制の基本とし、国名としてもその理念を体現化したのです。
東胡の残党勢力の恐ろしい支配を駆逐した連合国家は、列島各地で大きく称えられ、全国津々浦々の神社で祀られることとなりました。その神社の参道に築かれた鳥居は、国家的象徴である「天」の文字を象ったものです。
そして、その連合国家は、大きく発展し、宋書にもあるように、倭の五王の時代、朝鮮半島をも支配下にします。この連合勢力の墓が、前方後円墳です。
5、鮮卑族の隋による中国統一
長らく抗争が続いていた大陸では、楊堅が隋を建国し、589年に中国全土を統一しました。楊堅は、鮮卑系の北周の系列にあるので、中国王朝は、胡の勢力である東胡の末裔の鮮卑によって統一されたことになります。
したがって、大陸の鮮卑とこの列島の匈奴が、対峙することになりました。そうなりますと、激しい民族抗争を繰り広げてきた両者とも決して穏やかではありません。
西暦600年、この列島から隋に使者が送られ、その使者が、この列島のことを伝えていますが、楊堅は、その使者が伝える出雲王朝の国家体制には道理が無いとして、訓令でもって改めさせたとあります。この時点で、早くも両国間に火花が飛ぶ状態になったとも言えます。
そして、第2代皇帝煬帝が即位したばかりの大業3年(607)に、ふたたび隋に使者が送られ国書も届けられました。
その国書には、「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云」とありました。煬帝の即位の祝賀といった使者に携えられた国書において、煬帝に対し、『あなたが天子なら、私も天子だ、よろしく』と、対等の意思表示をした内容になっています。
ですから、隋は、『蠻夷の書無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ』と激怒します。
翌年、隋は、出雲王朝に対し使者を送り、出雲王朝はそれを歓迎していますが、国交断絶に至ってしまいます。
6、この列島を占領征服した唐王朝
隋の煬帝の時代、民衆への度重なる負担で各地に反乱が発生し、隋は大混乱に陥ります。
隋の武将だった李淵は、その混乱を鎮静させるべく首都大興城を制圧し、唐を建国しました。とは言え、隋も唐も同じ鮮卑による貴族政治であって、その王朝の担い手が代わったに過ぎません。今で言う「政権交代」といったところです。
そして、唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天の時代、663年11月18日、旧暦10月10日に、この列島は唐王朝によって占領征服されてしまいました。その経過は、資治通鑑に残されています。従って、これ以降、連合勢力の墓である前方後円墳は造られなくなります。
この武則天の時代に、この列島に関する歴史は、大きく歪められます。その痕跡が、梁書・北史・南史などに残されています。この時期は、占領征服を企んでいるため、非常に恣意的な表現で改竄しています。
ところが、この列島を植民地支配していた唐王朝も、907年、朱全忠等に滅ぼされ、大陸から逃れてこの列島に流れ着きます。その時に持ち込んだ宝物が今も東大寺正倉院に保管されています。
大陸に居た時には、この列島を散々敵視し蔑視していたのですが、大陸から放逐されこの列島に逃避してきた彼らは、その蔑視していた列島に身を置くことになってしまいました。そんなことに耐えられるわけもなく、彼らは、この列島から蔑視されていた歴史を消し去り、自らの天皇が支配していたとする歴史に作り替えてしまいました。
ですから、これ以降、我が国の歴史からは邪馬台国も卑弥呼も消えてしまったのです。
そして、唐(藤)を源(原)にするという意味で彼らは、藤原氏を構成しこの列島を今に至るまで支配し続けています。したがって、唐王朝の残党勢力によって改竄された歴史が、今をもってこの列島の人々に押し付けられ、その偽りの歴史で洗脳され続けているのです。
7、唐王朝の残党勢力がことごとく歴史を改竄
この列島を支配していた出雲王朝は、匈奴の勢力でした。ですから、この列島は、663年以降は、東胡・鮮卑によって征服されたままということになります。
その背後にある、東胡・鮮卑対匈奴という激しい民族抗争もこの列島の人々には一切秘匿されています。
こういった民族的背景は、古事記にも残されています。イザナギの鼻からスサノオ尊が、左目から天照が、右目から月夜見尊が誕生したとされています。現実にはあり得ないことで、これらのことは、東胡・匈奴・月氏が、中東から東アジアに渡来してきた勢力であることを伝えています。つまり、東胡とは、そのルーツがテュルク、トルコエリアからの渡来を意味しています。これが日本語のルーツでもあります。
また、この東胡・鮮卑対匈奴の激しい民族抗争は、「天の岩戸」の逸話として残されています。
天照とは、東胡・鮮卑の象徴です。スサノオ尊は、匈奴の象徴です。
東胡が匈奴に滅ぼされこの列島に逃避してきて、この列島を支配下にするも、スサノオ尊とこの列島の人々の連合勢力による「倭国大乱」でこの列島の支配が奪われます。しかし、数世紀後、この列島は、唐王朝の支配下に置かれます。
この列島を東胡の勢力が支配下にしていたのですが、その支配がスサノオ尊によって中断されます。しかし、その東胡の末裔である鮮卑族唐王朝によって支配が復活します。
このことこそが、『天の岩戸』の逸話の意味するところです。この列島の人々にとっては、東胡や鮮卑族によって支配される方が闇なのですが、彼らにとっては、スサノオ尊によって支配が中断していた時期は闇だと言っているのです。そして、唐王朝が占領支配したことで天照が復活したと言っています。
そして、その天照を祖先とする天皇によってこの列島は支配下に置かれます。それは、西暦663年以降なのですが、彼らは、スサノオ尊、つまり匈奴による支配を消し去り遠い太古の時代から天皇が支配していたという歴史を捏造したのです。その動機は、東胡の王を殺戮したにっくき匈奴による支配を消し去りたいということと、散々卑下していたこの列島に身を置きたくないので、自らの天皇が支配していたという高貴な列島に仕立て上げるためです。
ですから、出雲にあった都「やまと」、「淡海(近江)」、「吉野」は近畿にあったことにされてしまいました。出雲に今にまで残されている出雲風土記は、そういった改竄に根拠を与えるために作られています。
このように、天皇というシステムがこの列島に存在するようになったのは、663年以降であり、神武から元正までの天皇の諡号は、8世紀に淡海三船が一括撰進したもので、彼による全くの創作です。
古事記の記述は、唐王朝の残党勢力が読めば、その意味するところは理解できますが、本当の歴史を知らされていない国民がいくら読んでも真実になど決して到達できないようにされています。
8、唐王朝再興を目指す我が国の支配勢力
この列島に流れてきた唐王朝の勢力にとって、この列島は、倭人あるいは匈奴の暮らす島でしかありません。ですから、必ず大陸に支配者として舞い戻り、唐王朝を再興せよと古事記に指令が残されました。それが、「因幡の白兎」の逸話です。
彼らは、この列島の人々を徹底的に騙して、大陸に戻るために利用せよというその指令通りに動いています。秀吉の頃、明治維新以降、そして今現在も大陸侵略に邁進する動機は、唐王朝の再興にあります。ですから、彼らにとっては、この列島に暮らす庶民は、大陸侵略のための手先であって、また自分たちが肥え太るための家畜程度にしか思っていません。
つまり、天皇とは、東胡・鮮卑族にとっての象徴であり、この列島を彼らが支配下にしているということを意味しています。そして、彼らは、再び大陸で東胡・鮮卑の支配を復活させようと企んでいます。それがこの列島の支配勢力の存在意義でもあります。
明治維新以降、さも新しい時代が来たかのように思わせて、大陸へ侵略していった動機はそこにあります。ですから、まずは、東胡の拠点であった満州エリアに満州国を建国させたのです。そして、唐王朝の支配していた中国全土の再支配に邁進していきました。しかし、そんな時代錯誤の思惑が成功するはずもなく、世界の民主主義勢力に打倒されてしまいました。
しかし、彼らはアジア進出を目論んでいたアメリカを巻き込み、とりあえずは、彼らの象徴である天皇を温存することに成功しました。そして、次は失敗しないぞとアメリカと共に再び大陸支配を目指しているのが今です。天皇は決して国民にとっての象徴ではなく、国民を天皇の前に屈従させますが、あくまで天皇は武則天の命名した東胡・鮮卑の勢力の象徴なのです。
663年以降、この列島の人々は、東胡・鮮卑の隷属下に置かれていましたが、およそ1300年後、現平和憲法によって、やっと主権在民ということでその支配から解放されました。ようやく、国民は、東胡・鮮卑に奪われていた「日本」を取り返したのです。
しかし、東胡・鮮卑は、「日本を取り戻せ」をスローガンに、現憲法を替え、彼らの支配体制である明治憲法下に引き戻し、令和維新かのごとくに、明治維新以降の大陸侵略に再挑戦しようとしています。
そして、今、まさに周辺諸国を敵国扱いして、対立を意図的にあおり、我が国の国民を大陸侵略へと駆り立てています。
あらゆる政策が、大陸侵略のためになるかどうかで取捨選択されます。政治、経済、文化、教育、歴史、マスコミ、政府、国会、検察、司法などなど、あらゆる分野が、彼らの支配の下に置かれ、彼らの思惑に沿って動かされています。
そして、大陸に我が国の人々を送り込み、その保護と称して戦力を増強するのが彼らの戦略です。しかし、そう簡単に大陸へ行こうなどと思う人はありません。そのためには、国民を徹底して貧困に陥れる必要があります。そして、大陸へ行けば仕事もお金も豊富にあるよと大陸侵略に誘導するわけです。国民を徹底して騙し、因幡の白兎に登場するサメのごとくに大陸侵略のために利用しようとしています。
今、憲法を替え、明治維新以降の大陸侵略に再び挑戦するために、マスコミも米軍も徹底して利用し侵略戦争に向けて邁進しています。そして、その動機は、唐王朝の再興であり、東胡・鮮卑の大陸における支配の奪回です。
再び、天皇を大陸で復活させるために、天皇は残されています。それこそが東胡・鮮卑、あるいは、唐王朝、武則天の支配の復活であり、「天の岩戸」の完結です。
つまり、我が国に天皇というシステムが存在する限り、この国から大陸侵略に向けた妄動が止まることはないということを意味しています。
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