この説文は、2020年12月、全国邪馬台国連絡協議会の「私の邪馬台国論」に投稿し、掲載されたものです。


『改ざんされた歴史認識で1300年も闇の中にある日本』  

   西山恒之

 

<はじめに>

故梅原猛氏は、哲学者であり、古代史研究家でもあった。
 出雲の歴史に注目された梅原氏ではあるが、旧著『塔』において、「戦後の日本学は、戦前の日本学以上に不自由な枠で自分を縛った感がある」、「日本学はまだ、大きな闇の中にあるとしか思われないのである。そして、いっそう悪いことには、人はこの闇を闇であるとも気づかなかったのである」と述べておられた。
 日本人を歴史的な闇の中に陥れているものこそが、記紀認識である。それを深く検証すればするほど、より深い闇の中に陥ってしまう。この列島では、過去の歴史の真実が闇の中に葬られ、記紀認識でもって洗脳状態に置かれている。その洗脳状態から逃れられる術は、唯一中国に残されている史書を検証することによってのみ可能となる。
 ということで、今回は、中国の史書に残されている記述を検証しながら、我が国の歴史を振り返ってみたい。そして、古代史解明の最大の障壁となっている古事記の意味するところを明らかにしたい。

 

<1>歴史的背景と渡来民族の攻防

この列島から人類は誕生していない。つまり、私たちは、大陸からの渡来人の末裔である。

 

①  山戎の渡来・・・福の神

中国最古の地理書とも言われている山海経には、「倭属燕」という記述が残されている。その当時、中国東北部にいた「山戎」という遊牧民族が、紀元前663年、南下して燕との抗争になり、その戦いに敗れたとある。そして、彼らは、燕の支配下に置かれたり、この列島にも逃避してきたことは、以前の投稿でも述べたところである。

それまでにも、小規模での渡来はあっただろうが、歴史に残る民族的規模での渡来は、山戎が最初となる。この列島に逃避してきた山戎が、その後も燕との関わりがあったことが伺える。

高度な文明を築いていた山戎の渡来は、この列島の人々に大きな福をもたらした。その感謝の思いから、全国におよそ7千社のエビス系神社で今も称えられ、えびす講といった行事も残されている。そのエビス系神社の総本社が、島根半島の東端にある美保神社と兵庫県にある西宮神社である。

全国のエビス系神社から毎年美保神社に集まり祭りが催される。その地は、彼らの祖先が上陸した地点であり、彼らにとっての聖地でもある。それゆえ、その地は、山戎の都で山都、つまり『やまと』とは、山戎の都を意味する地名で、この列島の古代の都『やまと』は、今の島根半島周辺に存在していた。

 

②  東胡の渡来・・・悲しみと怒り

紀元前4世紀頃、中東から北アジアに遊牧騎馬民族が渡来してきた。東に東胡、オルドスエリアに匈奴、その西に月氏。彼らは、南下し漢民族との抗争を引き起こし、秦の始皇帝は、彼らの南下を防ぐために万里の長城を築いた。

その遊牧民族間でも激しい抗争を繰り広げた。

まず、紀元前3世紀頃、匈奴と東胡間で激しい戦いが起き、その戦いで東胡の王は殺され、東胡は滅ぼされた。烏桓山に逃げた者は烏桓、鮮卑山に逃げた者は鮮卑と呼ばれた。そして、その頃、東胡の一部がこの列島に逃避してきた。

民族的渡来の第2波である。

東胡の残党勢力は、山戎の聖地「やまと」を制圧し、出雲エリアに拠点を構えた。そこは、この列島で最も良質の鉄鉱石や砂鉄が産出され、製鉄の騎馬民族にとっては、最良の地であった。彼らは、その製鉄の力でもって次第に勢力を大きくし、在来の人々を支配下に置くようになる。鉄を制する者は国を制する。彼らの痕跡が、四隅突出型墳丘墓にも残されている。

この列島が、東胡の残党勢力の支配下に置かれたことは、後漢書からも伺える。
 
 
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

 安帝の永初元年(107)に、倭國王の帥升等が、生口百六十人を献じて、朝貢したとある。107年というと、四隅突出型墳丘墓が巨大化する頃で、東胡の残党勢力が、この列島で支配力を強めていた時期に相当する。
 つまり、後漢書に登場している「倭國王帥升」とは、この列島を支配下にした東胡の残党勢力の首領だと考えられる。
 だが、彼らは、この列島の人々に福をもたらすことはなかった。彼らの支配は、この列島の人々にとって、大きな怒りや悲しみでしかなかった。そういった支配の過酷さは、「あしなづち・てなづち」が毎年娘を連れていかれるという古事記の記述にも残されている。
 

③  匈奴の渡来・・・八岐大蛇を退治

西暦2世紀頃になると、大陸では、匈奴に敗れた東胡の末裔である鮮卑が強大化し、逆に鮮卑が匈奴を滅ぼし、北アジア一帯は鮮卑の支配するところとなる。

この頃、匈奴の一部が、それらの攻撃から逃れてこの列島にやってくる。

民族的渡来の第3波である。

2013年8月8日、滋賀県高島市上御殿遺跡で、オルドス式銅剣の鋳型が出土した。その鋳型は、中国の華北や内モンゴルに分布したオルドス式銅剣の特徴を持ち、オルドスエリアに拠点を構えていた匈奴の勢力がこの列島に渡来していたことの痕跡だと考えられる。

匈奴が渡来した頃、出雲エリアは、東胡の残党勢力が拠点を構えていたので、匈奴は、蒜山エリアに拠点を構えた。そこの宮座山には岩座が残っており、その周辺からは大規模な集落跡も発掘された。

蒜山は、以前は、日留山と記述されていた。つまり、スサノオ尊や匈奴の勢力であるところの「日」がそのエリアに留まっていたことを意味している。

匈奴も製鉄の民族であり、たたら製鉄にあっては、その加工も含めて膨大な木材や炭を燃やす。その木材の重要な供給エリアが、温暖多雨の紀伊半島、つまり、木州、木の国である。そこから、吉備に木材や炭が送られてきた。その木を備える吉備、つまり木備国である。重要な拠点なので、スサノオ尊は、息子の大歳を紀伊半島に送った。その大歳は、大物主として今も三輪山で奉られている。

当時の製鉄加工、武器の製造拠点が、備前長船で、今も刀剣の産地として残されている。煙の出ない上質の炭が、備前長船に送られた、つまり、それが備長炭である。木材や備長炭が、紀伊半島から海路で運搬されてくるので、備前長船は、その利便性から海岸近くに位置している。

当時、この列島の人々は、先に渡来した東胡の厳しい制圧下に置かれていた。その支配下にある在来の人々とスサノオ尊を中心とする匈奴の勢力は、共同して東胡の圧政を倒そうと大きな戦いに挑む。

それが、およそ西暦150年頃から40年間にわたる「倭国大乱」として中国の史書に残された。

その戦乱を制したのが、スサノオ尊に象徴される匈奴の勢力だった。このことは、「八岐大蛇」の逸話としても残されている。スサノオ尊が倒した八岐大蛇とは、当時大蛇のごとくに残忍な支配勢力だった東胡の勢力のことを意味している。八岐とは、古事記にもあるように、「本州・四国・九州・対馬・壱岐・隠岐島・淡路島・佐渡島」の八岐、つまり8の拠点である。この列島全域を支配下にしていた東胡の勢力を、スサノオ尊が在来の勢力とともに駆逐したことが、その逸話の伝えるところである。

従って、東胡の勢力の墓である4隅突出型墳丘墓は、これ以降、造られることはなくなった。

スサノオ尊が大蛇を切った、つまりこの列島を支配していた東胡の首領を切った刀剣が「布都御魂」として備前国一宮の石上布都御魂神社に奉納され、大蛇の尾から出た、つまり東胡の首領の刀剣が「草薙の剣」として熱田神宮に奉納された。布都御魂は、その後、奈良の石上神宮に移されたと言われている。

また、在来の民族や匈奴の立場からは、桃太郎という逸話でもスサノオ尊の活躍を描いている。

当時、島根半島は島であり、大蛇のごとくに恐ろしい東胡の拠点は、まさしく鬼ヶ島であった。

蒜山や吉備で対抗できるだけの戦力を構築したスサノオ尊や匈奴は、鬼ヶ島に巣食う東胡の勢力、つまり八岐の大蛇という鬼を退治したのである。

 

④  邪馬壹国と邪馬臺国の誕生・・・東胡の圧政からの解放

西暦190年頃、東胡の支配体制を打倒したスサノオ尊は、在来の勢力の象徴である「卑弥呼」を国家的象徴とし、自らはそれを支える実質的支配者とする国家体制を築いた。

その卑弥呼の国が「一国」で、スサノオ尊の国が「大国」とされた。つまり、(一)と(大)という文字を合体させると(天)という文字になる。そして、(一)が上で、(大)は下に位置する。スサノオ尊や匈奴の勢力は、この列島を征服した覇者であるが、スサノオ尊は、自らの勢力は、この列島には後からやって来たのだと、あくまで先住勢力を上に称えた。それを国家体制の基本とし、国名としてもその理念を体現化したのである。ここに、国家的象徴『天』が生まれた。

また、在来の勢力の中心には、先に述べた山戎がいた。だから、それぞれの国では、その山戎も重要な位置を占め支えていた。それにより、国名は、(山)と(一)で山一国が、一方、(山)と(大)で山大国がここに誕生した。これが、中国の史書に「邪馬壹国」、「邪馬臺国」と記された。

その卑弥呼を象徴とする邪馬壹国は、宮崎の西都原に存在した。その壹は、日向国一之宮の都農神社の神紋(一)としても伝えられている。また、卑弥呼の墓は、西都原古墳群の中にある我が国最大の円墳「男狭穂塚古墳」で、卑弥呼は今もそこに眠る。

一方、実質的支配者であったスサノオ尊の国が「大国」つまり「邪馬臺国」で、出雲に存在した。臺とは、皇帝の居する場所を意味する。その大国の王が「大国主命」であり、後々にまで引き継がれていった。同様に、出雲にある数多くの神社で神紋(大)が伝え残されている。

東胡の残党勢力の恐ろしい支配からこの列島の人々を救ったことで、スサノオ尊に象徴される出雲の神々は、列島各地で大きく称えられ、津々浦々の神社で祀られることとなった。その神社の参道に築かれた鳥居は、国家的象徴である『天』の文字を象ったものだ。

そして、その連合国家体制は、大きく発展し、宋書にもあるように、倭の五王の時代、朝鮮半島をも支配下にする。この連合勢力の墓が、前方後円墳であり、朝鮮半島にも築かれた。
 西暦190年頃から7世紀にかけて、この列島では豊かで安定した出雲王朝(大国)による治世が続くことになる。当時の官職名は、「徳仁義礼智信」に大小があり、官位12階とも呼ばれる。つまり、人々から厚い信頼を受ける人物がそれらの官職につくことで、多くの人々にとって良好な治世が行われていたと考えられる。人々は、五穀豊穣を祝い、全国に10万社ほどあるとも言われるエビス系や出雲系の八百万の神々を祀る神社で感謝の念を捧げた。

 

⑤  唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天こそが『天皇のルーツ』

その後、大陸の情勢も大きく変化し、楊堅が隋を建国し、589年に中国全土を統一した。楊堅は、鮮卑系の北周の系列にあり、中国王朝は、東胡・鮮卑族によって統一されたことになる。

ここに至り、東胡・鮮卑と匈奴が、大陸とこの列島で対峙するという構図となった。倭国大乱と同様の対立が海を隔てて再現されたことになる。

大陸の王朝である隋は、南海の孤島の国など属国としか見ていない。ましてや、東胡・鮮卑族の国である隋と、匈奴の流れにある出雲王朝(大国)とが、その背景にある激しい民族抗争の歴史をふまえると、友好関係を築くことなどあり得ない。

隋とは、国書の記述をめぐって国交断絶といった状況に至るが、隋は混迷の末、唐に引き継がれる。しかし、その唐との関係は、隋以上に険しくなっていく。

 そして、西暦649年、唐王朝第3代皇帝李治は、皇帝位に就くも病弱だったため、655年に皇后となった武則天が実質的支配者となる。

 武則天は、624年生まれで、14歳で第2代皇帝李世民の後宮に入り、その後李治に取り入る。その李治との間に娘が誕生するが、武則天は、自らの手で絞め殺し、王皇后の仕業だとして、王皇后を皇后の座から蹴落とす。武則天は、自分が権力の座を仕留めるためには、わが子さえも自らの手で抹殺するという残忍な手法を使っている。

 王前皇后等を虐殺し、まるで鬼畜かのごとく唐王朝の実権を握った武則天は、身内の武氏一族を重用するが、子や孫であろうと自らに反抗する者は容赦なく抹殺し、また密告により反対派を徹底して潰すなど、独裁的な恐怖政治を横行させた。

 当時、道教では、天の中心を為す北極を『北辰』と呼び、宇宙の中心だとしていた。それが、神格化され、『天皇大帝』とも呼ばれていた。こういった考え方を基にして、660年、武則天は皇帝を『天皇』とし、自らも『天后』と改名した。

 ここにこそ、我が国の今にまで続く『天皇のルーツ』がある。

 

⑥  史書に残された日本征服の動機・・・歪められた歴史

この列島は、中国の王朝にとっては東夷で、倭人、あるいは倭国などと、卑下した表現で記されている。ただ、卑下してはいるものの、彼らなりに見聞したこの列島の姿をそのまま書き記している。そういった史書が、『漢書、三国志魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)、後漢書、宋書、隋書、旧唐書、資治通鑑』などである。その記述内容には、特に問題はなく、そのまま読めば良い。

ところが、東胡・鮮卑族によって中国王朝が統一され、隋・唐の時代になると、積年の東胡・鮮卑族と匈奴の軋轢が表面化してくる。李治・武則天の時代になり、その背景にある民族抗争に、この列島で産出する水銀鉱脈への羨望が加わり、朝鮮半島の戦乱状態で一気に、この列島への占領征服意欲が頂点に達した。これらの動機から、史書の視点は、単に東夷と蔑視するだけでなく、征服略奪の対象に変わった。それに伴い、この列島の水銀鉱脈を支配する出雲王朝(大国)は、打倒の対象となり、徹底的に貶められ、歴史からも存在そのものも抹殺されていく。

その唐王朝の時代に『梁書、北史・南史』が作成され、この列島に関する記述は、意図的に著しく書き換えられた。つまり、歴史の改ざんが行われたのである。

では、その一部特徴的なところを検証してみよう。

 

=魏志倭人伝=

始度一海、千餘里至對馬國。

又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。

又渡一海、千餘里至末盧國。 

東南 陸行五百里、到伊都國。

郡使往來常所駐。

 

東南至奴國百里

東行至不彌國百里

南至投馬國水行二十日

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。

 

これは、魏志倭人伝に登場するこの列島に至る道のりであるが、まずは、朝鮮半島からそれぞれの中継地点の距離はおよそ50㎞で、それを千余里としているから、当時の1里はおよそ50mという縮尺になる。また、それまでの国には「至」るだが、伊都国には「到」るとある。つまり、それまでの国は通過点だが、伊都国は、目的地、到着地点だとしている。そして、それらの検証により、伊都国は、博多湾に上陸して東南に500里、つまりおよそ25kmの地点、現朝倉市甘木に存在していたというところに到達した。

伊都国には、帯方郡からの使者が往来し、駐在しているとある。つまり、そこは、今で言うところの「大使館」的な場所で、この魏志倭人伝に記されている道順は、この列島の大使館たる伊都国へ到るためのものだった。

次に、伊都国から周辺諸国の紹介をしている。「又」がついていないので、伊都国から、それぞれの紹介となる。まず、近いところから、奴国が東南に百里、およそ5kmの位置にあった。博多から甘木に通じる道は、そのまま東南の方向に伸びていて、その道を甘木から、およそ5km行くと、そこは旧朝倉町だ。そこに奴国があった。

次に伊都国から東に百里、およそ5kmの位置に不彌國があったとしている。甘木から東に5kmとすると、佐田川沿い三奈木のあたりになる。

次に伊都国から南に水行、つまり、海を二十日行くと投馬国があるとしている。それは、陸を経ては行けないということだ。甘木にあった伊都国から、先ほどの上陸地点である末盧國、つまり博多湾から船に乗り、長崎と五島列島の間を通り、南に二十日間かかって行けるような島だということになる。そこには、奄美大島があり沖縄へと連なる。今で言う沖縄は、当時、投馬国と呼ばれていたと考えられる。

次に、伊都国から南の方角に水行十日、または陸を1ヶ月行くと邪馬壹國があるとしている。投馬国は陸を経ては行けなかったが、女王が都する邪馬壹國には陸を経ても行けるとある。つまり、甘木にあった伊都国から、南に船で行くと十日間、陸を歩いて行くと1ヶ月だとしている。そうなると、これらに沿って考えると、南九州だということになってくる。その範囲内で候補地を検証すると、西都原に到達した。西都原台地には、巨大古墳群があり、その地に歴史的拠点があったことを物語っている。宮崎市の北西にある西都市、ここに『邪馬壹國』があったと考えられる。

このように、魏志倭人伝には、女王国「邪馬壹国」の記述はあるが、「邪馬臺国」への道のりなどどこにも記されてはいないのだ。

 

=後漢書=

倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。

 後漢書には、各地に王がいたが、その大倭王が邪馬臺国に居たとある。中国の史書で初めて、邪馬臺国が登場する。

  この『臺』の文字が、今のわが国の常用漢字にないため『台』という文字が当てられている。すなわち、後漢書に登場したこの『邪馬臺国』こそが、今のわが国で論じられている『邪馬台国』に他ならない。

 いわゆる邪馬台国は、魏志倭人伝ではなく、後漢書に登場しているのである。

 

自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王。

後漢書には、邪馬臺(台)国が記されていたが、女王国に関する記述もあり、そこに卑弥呼が存在していた。つまり、邪馬台国と女王国は別の国として記述されている。従って、卑弥呼は『大倭王』でもなく、『邪馬台国』にも存在していなかった。

ほとんど、今のわが国の常識かのごとくに思われている『邪馬台国の女王卑弥呼』というフレーズは、全くの誤りである。『邪馬台国の女王卑弥呼』などと思って検証している限り、『邪馬台国』には永遠に行き着けない。魏志倭人伝に登場する邪馬壹国は、臺(台)の文字の書き間違いなどではなく、壹でなければならなかったのである。

 つまり、ここにこそ、『邪馬台国』へ行き着けないトリックがあった。

 

=梁書=

從帶方至倭、循海水行、歴韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名未盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、至邪馬臺國、即倭王所居。

これは、唐王朝の時代に作成された梁書であるが、魏志倭人伝にあったこの列島に至る道のりや行程、行き先、到達先などが、ほとんど原型を留めないほどに改ざんされている。

魏書では、『到伊都国』とあったように、『伊都国』に到る行程だった。そして、その『伊都国』から、周辺諸国や女王国が紹介されていた。それゆえ、周辺諸国を紹介する部分には、『又』は記載されていなかった。

ところが、この梁書では、『到伊都国』とあったものが、『至伊都国』とされ、その『伊都国』からの紹介だった記述が、それぞれに全て『又』が記載されている。何と、周辺諸国の紹介ではなく、その諸国を経て女王国へ行く道順に変えられてしまった。さらに、魏書では、女王国の国名が『邪馬壹国』とあったのに、『邪馬臺(台)國』となっている。そこは、女王国のはずなのに、倭王の居する国とされている。魏書においては、女王国とあり、決して倭王のいる『邪馬臺(台)國』ではなかった。それは、後漢書でも、『女王国』と『邪馬臺(台)國』とは、異なる国として描かれていた。

 本来、『邪馬臺(台)国』ではない『邪馬壹国』を『邪馬臺(台)國』にすり替え、その上、全く異なる道順に描かれているのだから、このような支離滅裂な改ざん文書に沿って歴史の検証をしたのでは、邪馬台国になど到底たどり着けるはずもない。邪馬壹国は消され、邪馬臺(台)国は、遠く遥か彼方へ飛ばされてしまった。

  この梁書では、今までの史書によって伝えられている歴史が大きく歪められている。ここから我が国の歴史の偽造が始まった。

 

文身國、在倭國東北七千餘里。人體有文如獸、其額上有三文、文直者貴、文小者賤。土俗歡樂、物豊而賤、行客不齎 糧。有屋宇、無城郭。其王所居、飾以金銀珍麗。繞屋塹、廣一丈、實以水銀、雨則流于水銀之上。

この列島には、出雲王朝(大国)の存在など無かったかのように消し去り、『文身国』といった架空の国を創作している。その『文身国』なる国の国民は、物が豊富にあるにもかかわらずお客に食べ物も出さないケチなやつらで、国王にいたっては、金銀財宝にまみれ、さらに貴重な水銀を豊富に持っているが雨ざらしにしているとんでもない放蕩な国王だと、極めて恣意的な表現をしている。

 ここには、出雲の地にあったこの列島の都をターゲットにしている唐王朝の思惑が、極めてあからさまに描かれている。こんなにもとんでもない国だから占領征服しても構わないと、兵士や国民を侵略行為に扇動しているのである。

また当時、この列島からは、水銀が丹波や伊勢などで豊富に産出されていた。出雲王朝(大国)が支配していたその水銀鉱脈を、唐王朝が狙っていたことがその記述から見えてくる。喉から手が出るほどに欲しかったので、その水銀を粗末にしているとして国王を成敗しようと煽っているのである。本音は、ただ単に、彼らが水銀鉱脈を手に入れたかっただけのことである。

当時、水銀と言えば今の石油にも相当する貴重な資源で、寺院などに塗られる朱色の原料だったり、不老長寿の秘薬のように思われてもいた。また、金を水銀に溶かして仏像などに塗り、その水銀を蒸発させると金が残る。つまり、金メッキには水銀が欠かせなかったのである。唐王朝にとって、この列島は、倭人が暮らす忌まわしい国であって、彼らの列島征服の最大の目的は、水銀鉱脈の略奪だった。

侵略者は、まず侵略しようとする相手を必ず悪者に仕立て上げる。そして、こんなに悪いやつだから何をしてもいいのだとばかりに征服して強奪する。

唐王朝の作成した史書からは、そういった侵略者の思惑が垣間見えてくる。

 この梁書の視点で、北史・南史も、この列島の歴史は改ざんされている。

 

 

⑦  唐王朝による列島征服の軌跡

隋の煬帝は3度も高句麗遠征に失敗するが、東アジア征服の動機は、同じ鮮卑族である唐王朝にも引き継がれる。

唐王朝第3代皇帝李治とその皇后武則天の時代になり、朝鮮半島をめぐって、東アジアは戦乱状態に陥る。唐王朝は、チャンス到来とばかりに、高句麗、百済、日本征服に乗り出す。

 唐王朝による東アジア征服の経過は、『資治通鑑』に残されている。『資治通鑑』とは、北宋の司馬光が編纂した編年体の歴史書で、1084年に成立している。

 7世紀中ごろ、百済と高句麗対新羅で争いが頻発するようになり、660年3月には、戦況が不利と見た新羅は唐に援軍を要請し、その8月、唐は朝鮮半島に拠点を構えた。

 そして、661年になると戦闘は激しくなり、662年12月には、いよいよ高句麗、百済討伐の詔が発せられる。

唐王朝は、東アジアにおける反抗する勢力の殲滅に乗り出し、一方百済も、日本に支援を要請し、朝鮮半島は、抜き差しならぬ情勢となってしまった。

 

遇倭兵於白江口,四戰皆捷,焚其舟四百艘,煙炎灼天,海水皆赤

翌663年9月、日本軍と唐の劉仁軌軍が、白江口にて遭遇する。仁軌軍は、日本軍と四戦して全勝し、その舟四百艘を焼き、煙炎は天を焦がして海水は朱に染まったとある。

これが、『白村江の戦い』と言われる戦闘で、日本軍は、数万人の兵士が命を落とした。当時の、この列島の人口を考えると、主力となる戦力が失われたことになる。この戦いの直後、この列島は、仁軌率いる唐軍によって占領征服され、663年11月18日(旧暦10月10日)、出雲王朝(大国)、邪馬台国は滅ぼされてしまった。今も旧暦の10月10日から、出雲では神迎祭、神在祭としてその弔いが行われている。

663年9月から10月にかけて、百済や日本など唐王朝に反抗する勢力は、ことごとく殲滅され、その後の戦後処理といったことも描かれている。

仁軌は、翌年、664年10月に一時帰国し、皇帝に上言している。

 『現地の守備兵は疲弊したり負傷した者が多く、勇健な兵は少なく、衣服は貧しくくたびれ、ただ帰国することばかり考えています』と報告している。

 つまり、大きな戦闘は終わり、征服した後も占領支配を続けていることが分かる。

 

陛下留兵海外,欲殄滅高麗。百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,亦共爲影響,若無鎭兵,還成一國。

 さらに、仁軌は、重要なことを述べている。

 百済やこの列島に兵を留めているのは、高句麗征服のためで、倭人も百済や高句麗と関係が深いので、引き続き守備兵を配置しなければ、元の『一国』に戻ってしまうと述べている。

 魏志倭人伝に、卑弥呼の女王国の国名が『邪馬壹国』とあった。

 仁軌は、出雲王朝『大国』は駆逐したが、そのままにしていたら、もう一方の『一国』に戻ってしまうだけだと、その認識を洩らしている。

 つまり、卑弥呼のいた女王国の国名は、書き間違いでも、写し間違いでもなく『邪馬壹国』、『壹』、『一』でなければならなかった。それを裏付ける重要な証言が得られた。

 

麟德二年、封泰山、仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會、高宗甚悦、擢拜大司憲。

こちらは、旧唐書の劉仁軌伝にある記述だが、麟徳2年(665)に、仁軌は、新羅、百済、耽羅、倭国の4国の酋長を連行し、李治高宗は、甚だ悦んだとある。

 仁軌は、663年にこの列島を征服し、その占領下で唐王朝に反抗する勢力を一掃した。そして、その平定もある程度完了したと見たのか、665年に周辺諸国の王を唐に連行している。

 仁軌の、勝利の凱旋帰国といったところのようだ。

 

長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物、朝臣真人者、猶中國戸部尚書、冠進德冠、其頂為花、分而四散、身服紫袍、以帛為腰帶。真人好讀經史、解屬文、容止温雅。則天宴之於麟德殿、授司膳卿、放還本國。

701年、唐王朝は、日本における支配体制を確立させた。それが、大宝律令である。

 旧唐書によると、長安三年(703年)、日本の大臣の朝臣真人が方物を貢献に来たとある。大臣などという官職名は今まで出てきていない。唐王朝によって、国家体制が変えられてしまったことが伺える。

その、朝臣真人は、中国の戸部尚書のようで、冠は進德冠、その頂は花となし、分けて四方に散らし、身は紫の袍を服とし、白絹を以て腰帯としていて、さらに、真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美だったと述べている。

 そして、武則天は、麟德殿に於ける宴で司膳卿を授けて帰国させた。

 この朝貢した使者からは、それまでの出雲王朝の毅然としていた姿勢は微塵も感じられない。完全に、日本が唐王朝の植民地国にされてしまったことを物語っている。

 それ故、この列島の征服を指令した武則天は、その支配下となった日本から来た使者が自らの前に跪く姿を見て、すこぶるご満悦だった。

 それ以降、この列島において、唐王朝の勢力は、唐(藤)を源(原)にするという意味で「藤原氏」を構成し、王朝を補佐する佐藤、近くの近藤、遠くの遠藤、伊賀の伊藤、加賀の加藤などなど、各地に支配勢力として派生していく。

また、武則天一味が、この列島を乗っ取り、その後も支配し続けたので、その勢力は武士なのである。武則天の父の名は「武士彠」で、3人の兄は、「武士稜・武士譲・武士逸」だ。天皇だけでなく武士のルーツも、武則天にあった。

 そして、彼らは、荘園領主として、日本人をその支配下に置き、その後も地主と小作人という関係が延々と続き、唐王朝による基本的な支配体制は、今にまで変わらず続いている。

  また、出雲王朝の人々が、遠く東北にまで逃れたので、出雲弁と津軽弁はよく似ており、東出雲の日本(ひのもと)の人々が東北に逃れたので、「日本中央」という石碑が青森県東北町で発見されている。以前、津軽は「東日流」と表記していた。出雲にいた「日」の勢力が、東に流れていったことをそこに残していた。また、人だけではなく、「やまと、淡海、吉野、天の香具山」といった地名や山の名称までも、出雲から近畿地方に移されてしまった。そのため、万葉集の解釈に数多くの疑問や矛盾が生じてしまった。

 

⑧  唐王朝が滅ぼされ、日本に逃避してくる

日本を植民地支配下にした唐王朝だが、本国において、各地に反乱が起き、907年、朱全忠らによって滅ぼされてしまった。

この滅ぼされた唐王朝の姿が旧唐書に残された。

 唐王朝の一部が、この列島に逃れてきた時に、奪われないようにと、この列島に持ち込んだものが、東大寺正倉院に今にまで保管されている膨大な宝物である。そのすぐ側にある聖護蔵にも、隋・唐代の経巻がおよそ5千巻も残されている。唐王朝李氏は、この列島では、李の文字が「木」と「子」に分かれるので、「きし」、つまり「岸」を名乗った。

 この列島に逃避してきた唐王朝の残党勢力は、大陸から散々蔑視していたこの列島に身を置くことになるわけで、それ以降は自らが蔑視されることになる。彼らが、そんなことに耐えられるはずもなく、そこで、彼らは、この列島が蔑視されていたそれまでの歴史を消し去り、彼らにとって高貴な「新しい歴史」を創作した。それが、新唐書に残された。とは言え、彼らにとって、この列島の日本人は、あくまで支配下の植民地奴隷に過ぎない。

 

=旧唐書=

至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。

 旧唐書で、初めて日本国が登場する。貞観22年(648)に、唐へ行った使者が、日本国の成り立ちに関する、重要な事柄を述べている。

  『日本国は、倭国の別種なり』とあり、日本国は在来の民族とは別の民族であるとしている。

  また、倭国という名前が良くないので日本国に改めたともある。

  そして、日の辺りにあったので日本国としたとある。東出雲にあるスサノオ尊を奉る熊野大社には、『日本火之出初之社(ひのもとひのでぞめのやしろ)』という名称が、今に伝えられている。スサノオ尊や匈奴の勢力を意味する「日」、そのスサノオ尊を奉る熊野大社のエリアは、日の大本であり聖地だ。それゆえそのエリアは『日本(ひのもと)』と呼ばれた。日本(ひのもと)は、東出雲の地に古くからあり、それが国名の由来となった。出雲王朝(大国)の勢力からすれば、最も崇高で由緒正しき国名だ。今は、『日本(にほん)』と呼ばれているが、当初その国名は『日本(ひのもと)』であった。

このように新生『日本(ひのもと)国』という国名は、倭国などと蔑視する大陸の王朝に対抗し、対等の姿勢を貫こうとする過程で誕生した、輝かしく崇高な国名だった。

  しかし、唐王朝にしてみれば、出雲王朝(大国)は、匈奴の流れにあることは分かっているので、不信感を持っただけのようだ。

 

=新唐書=

日本、古倭奴也。

新唐書になると、一転して日本は古の倭奴なりとされている。

  倭奴とは別種とまで記していた日本を、古の倭奴だと変えている。今までの歴史や史書を振り返れば、日本が古の倭奴だなどあり得ない。むしろ、そうでは無かったというのが旧唐書までの認識だった。

 

其官十有二等。其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。

官位が12等あるとか、その王の姓が阿毎氏だと隋書に出てきた王のことを記しているが、その王が自ら言うのには、初めの主は天御中主で彦瀲に至るまで32世、皆『尊』を号として筑紫城に居するとある。

  今までこのような内容が過去の史書に出てきたことはない。自らが都合よく創作し、それをあたかも日本国の王や使者が述べたことにしている。

さらに、彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治するとある。これは、いわゆる神武東征、まったくの記紀認識そのものだ。

 

次曰綏靖、次安寧、次懿德、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。仲哀死、以開化曾孫女神功為王。次應神、次仁德、次履中、次反正、次允恭、次安康、次雄略、次清寧、次顯宗、次仁賢、次武烈、次繼體、次安閑、次宣化、次欽明。

  この新唐書には、神武以来平安朝の頃までの天皇の名前が記されている。わが国では、これだけの天皇が続いていると述べているが、過去の史書には天皇など誰一人として登場していない。また、天皇がいるということすら出てこない。ところが、天皇の系図が、いきなり新唐書には出てくる。

 天皇という呼称は、西暦660年、武則天が作り出したものだから、それ以前に天皇という名称は存在していない。ましてや、この列島になどあるはずもない。「釈日本紀私記」には、八世紀後半、淡海三船が、神武天皇から元正天皇までの諡号を一括撰進したことを残している。つまり、創作である。

 唐王朝において、唯一天皇を名乗ったのは李治で、天后を名乗ったのは、武則天のみである。我が国の天皇の諡号にあって天がつくのは、天智と天武だけで、天智が兄で天武が弟とされている。もちろん架空の存在であって、これが意味しているのは、天智とは天皇を名乗った李治を、天武とは天后を名乗った武則天で、この兄と弟とは、肉親関係ではなく、権力の上下を示唆していて、兄貴分弟分ということだ。あくまで、李氏が宗家で、武氏は所詮は外戚だということだ。我が国においても、李つまり岸が最も唐王朝の流れの中心に位置していることを意味する。

新唐書では、唐王朝の頃以上に、歴史の改竄が行われた。つまり自らが、遠い太古の時代からこの列島を支配していたかのような歴史に作り替えている。それゆえ、この列島に数多くの国があったことも、この列島が蔑視されていたことも、卑弥呼も邪馬台国も全く登場しない。本来の歴史などすっかり消されて、創作劇のごとくにこの列島の歴史を改ざんしている。

 

  咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。或云日本乃小國、為倭所并、故冒其號。使者不以情、故疑焉。又妄夸其國都方數千里、南、西盡海、東、北限大山、其外即毛人云。

咸亨元年(670)に高句麗を平定したのを祝して使者が来たとある。そして、旧唐書にあった日本国の紹介文があるが、やはり創作の跡が見られる。日の出る所に近いので日本という国名にしたとなっている。これは、日本国命名の根拠として今もよく言われているところだ。

旧唐書では、決してそうではなかった。

新唐書の記述は、過去の史書にあった記載などともまるっきり逆で、大陸を追われてこの列島にやってきた唐王朝の残党勢力の視点で、全く異なる歴史を創作している。

我が国の歴史が矛盾だらけの原因はここにあった。

そして、この新唐書の視点で、さらに粉飾されたものが古事記なのである。

 

<2>古事記作成の動機・・・唐王朝再興への指令書

大陸を追われてこの列島に逃避してきた唐王朝の残党勢力にとって、最大の関心事は、この列島から大陸に舞い戻り、再び大陸の支配者として返り咲くことでしかない。しかし、王朝貴族の彼らにそんな力など持ち合わせていない。ということで、支配下のこの列島の日本人を騙して、大陸侵略の手先として利用することにした。だが、そんなことが日本人に知れたら、利用するどころの話ではなくなる。したがって、徹底的に騙すことにした。日本人たちが何者なのか、どこから来たのか、何に利用されようとしているのか、本当の事は何一つ知らせることなく、自らの謀略に従わせることにした。

 それゆえ、例え日本人に見られても、理解できないように、彼らの思惑や手法を暗号のごとくに粉飾して伝え残した。それが古事記である。

 そもそも古事記は歴史書などではなく、唐王朝の残党勢力が大陸回帰を成し遂げるための指令書である。その古事記に沿って、1300年にわたって見事に日本人は騙され、彼らの思惑どおりに利用されてきた。

 今、ここに、その古事記の本性を白日の下に晒す。

 

①  渡来人の歴史を抹殺

この列島からは、人類は誕生してもないのに、記紀認識にあっては、この列島は神々によって創造され、人類までもその神々によって生み出されたことにされた。つまり、渡来民族の歴史が闇に葬られてしまったのである。古事記は、冒頭から改ざんの歴史で始まる。

それにより、この列島の日本人は、自分たちの祖先も歴史も分からなくされてしまった。単一民族だなどと、唐王朝の残党勢力も、同族だと思わされてしまった。だから、仲間であって敵と認識できないから、反抗することもなく、支配勢力はいつまでも安泰なのである。

 

②  天照=武則天、天の岩戸の意味するもの

この列島の征服を指令した武則「天」の本名は、武「照」で、まさしく天照である。その武則天が、天皇の命名者なので、天皇の祖先は天照とされている。その武則天は、自らが即位し聖神皇帝を名乗った。聖「神」皇帝たる「武」則天で、神武である。これらのことは、この列島に今にまで続く天皇のルーツが武則天にあることを伝えている。

古事記の中で、最強の神は天照である。しかし、この列島の人々にとって最も尊い神であるはずのスサノオ尊は、天照の弟にされ、まるで妖怪のごとくに忌まわしい姿に貶められた。

天照、スサノオ尊、月読命の誕生についての記述があるが、天照とは、武則天を意味していると同時に、東胡・鮮卑族の象徴でもある。同様にスサノオ尊は、匈奴の象徴である。つまり、左目から天照が、右目から月読命、鼻からスサノオ尊が生まれたことが意味しているのは、東胡・月氏・匈奴は、全くの異民族ではなく、中東から渡来した民族で、非常に近しい関係にあることを伝えている。

そして、天照は、高天原にいるが、スサノオ尊によって高天原が荒らされ、天の岩戸に隠れたとある。

このことは、『倭国大乱』で敗北したことを、天照が天の岩戸に隠れたと表現しているのである。

そして、再び、唐王朝、つまり、東胡・鮮卑族によって、この列島の支配を取り戻したことを、天照が天の岩戸から出てきて、高天原は再び明るくなったとしている。

つまり、天の岩戸の逸話の意味しているものは、東胡・鮮卑族の立場から見て、その支配を奪われると天照が隠れ、支配が復活すると、天照が再び現れるという例え話なのである。従って、高天原とは東胡・鮮卑族の支配権能の及ぶエリアを意味し、天の岩戸とは東胡・鮮卑族の支配の有無を表す比喩なのである。それゆえ、高天原や天の岩戸とは、実際に存在したのではなく、東胡・鮮卑族の支配状態を表現するための架空の概念である。

 

③  国譲りとは日本強奪の美化

天照は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)を中つ国、出雲国の平定に向かわせる。その武甕槌神が降ったのが出雲国伊耶佐の小浜、今で言う稲佐の浜である。武甕槌神は、浜に剣を突き立て、『天照大神は、自分の子どもにこの国を治めさせようと言われているがお前の気持ちはどうだ』と大国主命に迫る。大国主命は、二人の子どもの神に相談するが、その二人とも武甕槌神に太刀打ちできず、結局、大国主命は国を『献上』すると言ったとされている。

まずは、武力で以って制圧し、その後に『禅譲』という形式でその侵略行為を正当化するというのは、唐王朝を建国した李淵の手法で、ここではさらに『献上』されたとまで美化している。

武則天の忠実な家臣であった劉仁軌によってこの列島が征服されていたことが、古事記では天照の指示で武甕槌神により出雲が征服されたとあり、まさにその史実に相当している。

 

④  出雲の祟り

この列島を占領征服した唐王朝の勢力は、出雲王朝を殲滅したものの、その祟りに怯えていたということも伺える。
 垂仁天皇の子どもは、大人になるまで物が言えなかった。その天皇の夢に神が出てきて、『私の宮を天皇の宮殿と同じように整えたら、子どもは必ずきちんと話せるようになるだろう』と言う。そこで天皇が子どもを出雲に参拝させると、その子は言葉が話せるようになり、天皇は、出雲の宮殿を新しく造らせたとある。
 このように、唐王朝・藤原氏が出雲の『祟り』に大層怯えていたということ自体、加害者としての認識を持っていたことの証でもある。

同時に、加害者意識があるからこそ、報復を危惧してもいて、その対策を講じる事も決して疎かにしてはいない。出雲の勢力による報復や出雲王朝再興などといった反攻の対策として、『征夷大将軍』を設置して、常にその監視と制圧を行っていた。
 征夷の夷は、夷人であるところの出雲の勢力を意味し、平安朝の頃に設置された征夷大将軍は、その後も江戸時代に至るまで残された。
 そういった出雲対策は、遠い過去のことではなく、今も引き続き行われている。歴史認識という点においても、出雲大社をはじめ神社や遺跡などの分析も含めて、記紀認識内に押し留めるような対策は怠ることなく徹底されている。 

 

⑤  大陸を侵略せよ!

第十四代仲哀天皇の段で、仲哀天皇が、神のお告げを請い求めると、その神は『西の方に国があり、金銀をはじめとして、目もくらむような種々の珍しい宝物がたくさんその国にはある。私は今、その国を帰服させようと思う』と答えている。
 仲哀天皇は、西の方を見ても何も見えないので、『国土は見えず、ただ大きな海があるだけです』と答え、その神の言うことに不信を持ち、知らん顔をして琴を弾いていた。するとその神は、『およそこの天下は、お前の統治すべき国ではない』と怒ってしまう。それでも、仲哀天皇は無視して琴を弾いていたが、そのまま絶命してしまう。天照の意思だとされる大陸侵略に従わない者は、たとえ天皇であっても許されないという脅しを意味している。
 絶対的な権力者であったかと思われる天皇の背後には、さらに強力な支配者がいた。この列島にあっては、唐王朝の残党勢力こそが、天皇の背後にあって実質的な支配者である。

 
⑥『騙せ』…謀略が基本

武則天を皇祖神とする唐王朝・藤原氏だから、彼らの手法も徹底した謀略の手法に徹している。
 倭建命が、天皇の命を受けて、天皇に服従しない熊曾建の兄弟を討ち取りに行くという逸話がある。

その倭建命は、熊曾建の兄弟が軍勢に囲まれていて中に入れないので、しばらくして祝宴の時、女装して紛れ込む。その兄弟は、油断して、倭建命を二人の間に座らせた。そして、宴もたけなわの頃、倭建命は、懐から剣を出して兄弟を刺し殺してしまう。
 さらに、倭建命は、出雲国へ行き出雲建の殺害を計画する。出雲建と親しくなる一方で、木で偽物の太刀を作る。出雲建を河へ水浴びに誘い出し、倭建命は、河から先に上がって、出雲建の解いて置いてある太刀を身につける。さらに、後で上がってきた出雲建に『太刀を交換しよう』と言って、出雲建に偽物の太刀を身に着けさせると、倭建命は、『さあ太刀を合わせよう』と誘導する。そこで、二人は太刀を抜こうとするが、出雲建の持っている太刀は偽物だから抜くことができない。倭建命は、すぐさま、持っている太刀で出雲建をうち殺してしまう。
 こういった卑劣極まりない謀略が、彼らにとっては最良の方法だと言っているのだ。
 唐王朝・藤原氏は、徹底した謀略、『だまし討ち』を基本戦術としており、それは今に至るまで受け継がれている。   


⑦決して本心は口にするな!

大陸を追われ、この列島に逃避してきた唐王朝・藤原氏にとっては、再び大陸へ戻り『唐王朝を再興すること』こそが、彼らの歴史的使命だ。

しかし、事はそう簡単に成就できるものではない。

過去、武士の力を増強し、秀吉の頃にも加藤清正などが大陸へ向かったが、破綻してしまう。そして、明治維新以降、『富国強兵』などと、さも国民には自らの国が発展していくかのように思わせて、大陸侵略へ向けて一路邁進する。
 しかし、そんな侵略行為が成功するはずもなく、世界的な民主主義の包囲網の中で、再び彼らの『唐王朝再興』の構想は破綻した。
 だが今、再度大陸侵略へ向かおうと画策している。唐王朝の残党勢力は、まだ自分たちの目論見は露呈していないと考えている。強力な軍事力を持つ米軍を『助っ人』として『次は失敗しないぞ』と、その準備工作を着々と進めている。

しかし、彼らは、決してそういった目論見を口にすることはない。何故ならば、古事記に決して口にしてはならないといったことが盛り込まれているからだ。
 古事記に出てくる因幡の白兎のお話は、よく知られている。島に流された白兎が、サメを騙して対岸に渡ろうとするもので、目指す陸地にまでもう一歩のところで、サメを騙していたことを口にしてしまう。そのため、白兎は並んでいた最後のサメに酷い目に遭わされる。 

つまり、この列島に流れてきた唐王朝が再び大陸に戻るためには、この列島の人々を徹底的に騙して利用せよ、ただし、決してその本心は口にしてはならない、といった『口止め』のお話だと、彼らの立場から読めば、戒めの話だと理解するのである。
 しかし、そういった認識にない人が読んでも、ただの昔話か御伽噺としか思えない。    

『天照』は、全国の神社の頂点に立つ伊勢神宮で奉られていて、1960年代後半以降、現職総理大臣は毎年年始に伊勢神宮を参拝している。この国の最高権力者が、大陸侵略への大号令を発している天照、つまり『武則天』への忠誠を誓っているとしたら、我が国の将来にとって極めて危険な動きだと言わざるを得ない。


⑧大陸侵略を阻止するには

現在は、紛争を平和的に解決する流れが、世界各地で定着してきているので、彼らのチャンスは、そうそう来ることはない。そうなると、謀略的手段を使ってでもその機会を作り出そうとするのが、彼らの常套手段だ。すでに、朝鮮半島をめぐって、いろいろ戦略を立てているようで、大陸に「悪者」を作り出し、あたかもその悪者を退治するかのごとくに装って大陸侵略に突き進もうと狙っている。
 今のわが国は、東胡の拠点だった満州に侵攻する直前の頃と同様の時期だとも言える。
 一方、彼らの思惑に反して、日本人には、再び戦争の加害者になることを望むような人はいないが、謀略事件が意図的に引き起こされ、マスコミが総動員されて、戦争への大きな流れが作られると、人はそちらに流されてしまう。
 再び、この列島の人々が、白兎に騙されたサメのごとく、ハガキ1枚で大陸へ送り込まれることがないようにするには、彼らの動きを阻止する国民の強大な大同団結の輪を築かなければならない。
 

 

<終わりに>

唐王朝は日本を占領征服し、その残党勢力は、1300年にわたって日本人を支配下にし、寄生してきた。この国の政治経済文化司法マスコミなどなど、あらゆる分野が彼らの支配下にある。自らに都合よく改ざんする手法は、今も継続されている。

それに気づかないようにしているのが、記紀認識で、自分たちの過去も現在も未来も見えなくされている。まさしく闇の中に陥れられたままだ。そして、その支配下で、徹底して収奪されている。

 邪馬台国をはじめ我が国の古代史の様々な謎は、我が国の歴史が唐王朝によって改ざんされたことが認識できなければ永遠に解き明かすことはできない。また、その唐王朝によるこの列島の占領征服が認識できなければ、古代史のみならず、今の日本の実態も、自らの置かれている立場も理解し得ない。それは、永遠に日本人が唐王朝の残党勢力の支配下に置かれ、騙され収奪され続けることをも意味している。さらに、大陸侵略の手先にまでされてしまう。

逆に、唐王朝が、我が国の歴史を改ざんしたことや、占領征服したことを理解できさえすれば、我が国の本当の歴史に到達することができる。

洗脳の最大の要因である古事記の偽りの歴史を乗り越えた時、この列島の人々は、その軛から解き放たれ、記紀認識の呪縛から解き放たれるのである。そして、多くの人々がそれを理解できた時、ようやく日本は、1300年の闇から脱することができる。

先日、私どものHPを見て、感想をいただいた。

『はじめまして。K・Hと申します。貴殿のHP「邪馬台国は出雲に存在した!」を拝見させていただきました。私も以前、日本史関連の書籍を発刊したことがあるのですが、その際、「邪馬台国=出雲説」を発表しました。貴殿HPを見て、間違っていなかったと確信しました。あと、天照=武則天の考察は素晴らしいと感じました。私も天皇家と武則天、道教との関係は存じておりましたが、天照=武則天の考察は本当に納得できるものでした。藤原氏のルーツが、鮮卑族・唐にあるというのも納得できます。こちらも私の推測通りでした。すべてが繋がりました。もはや日本史の謎はすべて解き明かされた思いです。秀逸な考察をありがとうございました』

我が国の古代史の謎を解明するということは、登山にも似ている。途中、雲の中にあって何も見えない状態であっても、それを抜けて頂上に到達できたら、そこからは、四方八方を何の障壁もなく綺麗に見わたすことができる。一人でも多くの人が登頂に成功され、真実の歴史に到達されんことを切に願うばかりだ。

 



  邪馬台国発見 (メイン)    邪馬台国の徹底検証(邪馬台国徹底検証)     とうとう邪馬台国の謎は解明された

  邪馬台国発見

  ブログ「邪馬台国は出雲に存在していた」

  Copyright (C) 2014 みんなで古代史を考える会 All Rights Reserved.