自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、 次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有 鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王 境界所盡。 其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。 女王国より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして詳らかにすることを得べからず。次 に斯馬国あり。次に己百支国あり。次に伊邪国あり。次に郡支国あり。次に彌奴国あり。次に好古都国あり。次に不呼 国あり。次に姐奴国あり。次に対蘇国あり。次に蘇奴国あり。次に呼邑国あり。次に華奴蘇奴国あり。次に鬼国あり。 次に為吾国あり。次に鬼奴国あり。次に邪馬国あり。次に躬臣国あり。次に巴利国あり。次に支惟国あり。次に烏奴国 あり。次に奴国あり。これ女王に境界の尽くる所なり。 その南に狗奴国あり。男子を王となす。その官に狗古智卑狗あ り。女王に属せず。郡より女王国に至ること万二千余里。 女王国より北は分かるが、それ以外の国は、遠いのでその詳細は分からないとしています。その国名を見ると、伯耆国といった国名もあるので、本州にある国々が記されているようです。伊都国にいる使者が、こういった国があると聞いたのでしょう。 それらの国の南に『狗奴国』があり、女王国には属していないとあります。この『狗奴国』は、紀伊半島にあり、『狗奴』は『熊野』に通じているとも考えられます。 そして、帯方郡から、女王国までの距離を1万2千里だとしています。つまり、ソウル周辺からおよそ600kmに女王国はあったということになります。 当時の、測量の誤差、あるいは1里を50mとした誤差を考えても、帯方郡からの距離は、700kmくらいまでだと考えられます。それで検証しますと、まさしく西都原の地は、それに相当します。 男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾 男子は大人、子供の区別無く皆体に入れ墨をしている。昔から、この國の使者が中国に詣で来た時、皆自ら大夫と称している。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪入れ墨を以て蛟竜(サメ)の害を避けたと言うが、今 倭人も、好んで潜水して魚貝類を捕える。その時入れ墨が魚・水禽を寄せ付けないまじないとなっていたが、今では 飾りとなってしまっている。 魏志倭人伝には、風俗も多く紹介されています。 その中に、海に潜って魚や蛤を採る時に、サメの被害から身を守るために入れ墨をしているとあります。これは、南方の民族の風習を紹介しているようです。 これ以外にも、葬祭、占い、飲酒、など衣食住に関わることを伝えています。 國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中 有如刺史。 王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。 國國に市あり。有無を交易し、大倭の使いがこれを監督する。女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を 檢察する。諸國これを畏憚す。常に伊都國にて治める。國中において刺史の 如きあり。 王、使を遣わして京都、帯方郡、 諸韓國に詣り、および郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書、賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。 国々に は市が立っていて、色々な物を交易しており、大倭がこれを監督していたとあります。 また、女王國より北では、特別に一大率(いちだいそつ)を置いて、諸国を検察させており、諸国では、これを畏れていたともあります。 ここから、大倭が、強力な権力を持っていたことが伺えます。 また、王が使いを使わして魏の都や帯方郡・諸韓国に朝遣する時や、又、帯方郡の使いが倭國を訪問してきた時、大勢で港に出迎え、文書や贈り物を調べて女王の所へ届けさせているが、間違いはないともあります。 『女王国』以外にも、『大倭』という強力な権力があることや、『王』と『女王』と記していることから、この列島には、大きくは、二つの勢力があったことが分かります。 また、時々、この列島には文字がなく、7世紀頃になって文字が導入されたと言われることがありますが、ここにもあるように、文字で以って大陸との交流がなされており、この列島では文字が普通に使われていたことも分かります。 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。 乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、 無夫壻、有男弟佐治國。 その国は元々男性の王がいたが、7~80年の間に倭国は乱れ、歴年争いを繰り返していた。そこで一女子を王として共立した。名づけて卑弥呼という。鬼道にたけており、大衆を幻惑している。能く衆を惑わす。齢はとっているが、夫はおらず弟がいて国を治めている。 倭国では、元々男王がいたが、7・80年して、争いが続き一女子を王として共立しています。その名を卑弥呼といい、夫は無く弟が国を補佐して治めているとあります。 しかし、他の部分も含めてよく見ますと、確かに女王とか女王国といった表現は出てきますが、『邪馬台国』の女王卑弥呼という表現は何処にもありません。 つまり、卑弥呼は、邪馬壹国の女王ではありましたが、『邪馬台国』の女王ではなかったことになります。 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。 女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり。 この魏書に卑弥呼は、登場するのですが、邪馬台国の女王という認識はどこにも示されていません。それどころか、その女王国よりも強力な『大倭』や、『女王』以外に『王』という表現も登場しています。 卑弥呼の女王国から東へ海を渡って千余里行くとまた国があるが、それも倭種だと述べています。つまり、その女王国の所在地についても述べられていて、卑弥呼は九州にいたと、ここには明記されているのです。 卑弥呼のいた『邪馬台国』が近畿にあったといった説が、『歴史の専門家』とされる人たちから唱えられることもよくあります。 しかし、それは、全くあり得ない偽りであるとしか言いようがありません。卑弥呼が、近畿に居たなどというのは、『卑弥呼は邪馬台国などには居なかった』、そして、『卑弥呼は九州に居た』、という2重の意味で間違いであるということを早く知るべきです。 まだ、史書が理解できていないのなら勉強していただかなければいけませんし、分かっているのなら訂正しなければいけません。 卑弥呼はあくまで九州の中の女王国に居たというのが、この魏書の認識です。 景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰: 「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹 二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。 景初二年(238年)六月に、倭の女王は大夫難升米等を派遣し、郡に天子に詣うでて朝献したいと要請した。太守劉夏は、使いを遣わして彼らに随行させ、都に詣でさせた。その年の12月、倭の女王に送った詔書曰く、「親魏倭王卑弥呼に申し伝える。帯方郡の太守劉夏は使いを使わし汝の大夫難升米・ 次使都市牛利を送らせ、汝の献上した男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉って到着した。汝がいる所は遙かに遠いにもかかわらず、使いを派遣して来た。これは汝の忠孝の表れであり、我は甚だ汝を哀れむ。今 汝を親魏倭王とし、金印紫綬を授け、封印した後、帯方郡の大守に授けさせる。 卑弥呼が、景初2年に魏へ使者を派遣します。6月に帯方郡へ行き、郡の使いとともに魏の明帝に朝貢しています。それに対し、明帝は、12月に、詔書と金印をはじめ多くの品々を授けています。その詔書で、皇帝は、卑弥呼に対し、遠いところをよく使者を送ってきたと、また汝の忠孝の表れだと甚だ哀れんでいます。 そして、金印紫綬を授け、装封して帯方郡の太守に授けるとあります。 又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤,皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也。」 特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張、白絹五十 匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百牧、眞珠、鉛丹各五十斤を賜い、皆装封して難升米、牛利に付す。還り到らば録受し、 悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。 また卑弥呼には、数多くの品々が授けられ、使者が帰ってきたら、目録と照らし合わせ、それらを国中の人に示し て、魏が卑弥呼に好意を持っていると知らしめなさい。だから、魏は鄭重に好物を授けるのである」と、詔書で述べています。 正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。 正始元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝受させ、并わせて詔によって齎(もたら)された金、帛、錦、毛織物、刀、鏡、采物を賜り、倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼を上表した。 その四年(243年)、倭王は再び大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹、木弣(弓柄)、短い弓矢を献上した。掖邪狗らは一同に率善中郎将の印綬を拝受した。 卑弥呼が景初2年(238年)に使者を送ったその2年後、正始元年に、魏は、倭王に使者を派遣し詔書や印綬等を届けています。この部分は、わが国の古代史にあってはあまり話題になっていないようですが、極めて貴重なことが述べられています。あるいは、ここの部分をどう認識するかが、わが国の古代史を理解する上で、その試金石になるとも言えます。 つまり、倭王と倭女王という2つの勢力が存在していたことが、認識できるかどうかということです。 ここでは、魏の使者が、わざわざ倭王の所まで出向いています。そして、倭王の所に出向くことを『詣』、詔書や印綬を渡すことを『奉』と表現しているのです。『詣』とは、『臺』、つまり皇帝の居する都を訪れる時に使う表現でもあります。さらに、詔書や印綬を『奉』じるとしています。 卑弥呼に対しては、『汝』、『哀』など、見下ろす表現をしています。あくまで、魏が下賜するという視点となっています。 ところが、倭王に対しては、『詣』、『奉』、『拝』と仰ぎ見る視点となっています。まず、倭王と倭女王が居た、そして魏は、倭王に対して敬意を持っていたということです。ここに登場する倭王が、この列島を支配する大王だからこそ、魏はわざわざ使者を送っているのです。 さて、現在、わが国の『歴史の専門家』と言われる方々の多くは、この倭王を卑弥呼だと『見なして』おられます。魏の皇帝が、卑弥呼を『親魏倭王』と詔書の中で述べていることもあり、混乱されているようです。というより、倭王の存在を消そうとしていると言った方が正確なのかもしれません。そこには、様々な思惑があるようにも思えます。 では、その『歴史の専門家』の方々の主張ですが、それは、はっきりしています。 ここに登場する『倭王』は、卑弥呼を意味しているというものです。 そうなりますと、景初2年に卑弥呼の使者が魏へ行き、詔書・印綬他、多くの品々を授かっているのですが、魏は、その2年後にまた詔書・印綬等を、再び授けたことになります。そんな2重に授けることなど、するはずもありません。その人たちにしてみれば、そんなこともしたのかもしれない、などと思っておられるのかもしれません。 しかし、さすがに、そこまでは言われてないようですが、そのような『改竄』にも等しいことを主張されることで、さらに辻褄の合わないことを言わざるを得ないような所へ陥っておられます。 なんと、2重に授けるということを、何とか避けようということで、景初2年に行った卑弥呼の使者は、手ぶらで帰国したと言われています。そして、正始元年に、その目録にあるような品々が届けられたのだそうです。6月に訪問し、半年待たされたあげくに、また後で届けるから、とりあえず帰ってくれとなったのだそうです。 そのような想像をされることはご自由ですが、それを主張されるのは、いかがなものかと思います。 そもそも、景初2年の詔書にある、目録の品々と正始元年の品々は、全く異なります。倭王と倭女王のそれぞれに、魏は授ける行為をした、これが魏書に記されていることです。 半年間、待たされたというのは、その詔書にも銅鏡が100枚渡されたとあるように、その作成のために時間がかかったということなのでしょう。その詔書にも、使者が帰国したら、その目録と品々をよく照らし合わせるようにとあったように、その使者は、それらの品々を持ち帰っています。 こういった、余りにもひどい『改竄』はやめていただきたい。 また、正始元年の使者が、倭王に銅鏡を届けていますが、それが、出雲の地で発見されています。『景初3年』の銘文の入った銅鏡が、出雲で発掘されたということは、この正始元年の倭王は、出雲の地にいた王だったということを意味しています。 そこで、その『歴史の専門家』の方々は、とんでもないことを言い始めました。 なんと、卑弥呼の使者は、景初2年ではなく、景初3年に行ったということにしてしまいました。 だから、その出雲で発掘された銅鏡は、卑弥呼から渡ったものだというのです。その方々にとっては、都合よく歴史を作り変えるのがお仕事のようです。 そもそも、卑弥呼の使者が、景初3年に行ったなどあり得るはずもありません。その卑弥呼の使者は、明帝と会見しているのですが、その明帝は景初3年の正月に亡くなっているのです。彼らは、亡霊と会談したとでも言うのでしょうか。皇帝が亡くなると、その年は喪に服して、公式行事も行われません。そういった事情は、帯方郡で分かりますし、帯方郡の使者が、本国まで随行しているのですが、その魏の使者は皇帝の死を知らなかったのでしょうか。6月ですから、いくら遠いと言っても、そんな国家的一大事の情報が届いていないことなどあり得ません。つまり、その時点で、卑弥呼の使者は、皇帝への面会はできないと知ることになります。 ですから、景初3年に行ったなどという説を口にするには、相当の覚悟がいります。 卑弥呼の使者が、帰国する時に明帝から詔書を授かっています。その詔書は、ではいったい誰が書いたというのでしょう。卑弥呼の使者が来る前にあらかじめ書いていたなどと言うのだけは、やめていただきたい。卑弥呼の使者が、何を献上したかまで書いてあるのですから、そんなことまで予知できるはずもありません。 また、景初2年に遼東半島あたりで公孫氏をめぐる抗争が起きていたので、行けていないといったことも言われることがあります。しかし、その使者たちは、遼東半島など通りませんから、別に支障はありません。 むしろ、何らかの危険があってはいけないと、帯方郡の使者が随行しています。 とにかく、『歴史の専門家』といった方々は、あり得もしない説を根拠なく言われるのは、やめていただきたいと、心から願うものであります。 |
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