この列島が唐王朝に征服されていたことは、出雲王朝の歴史と同様に、1300年にわたって、我が国においては消された歴史でした。しかし、そのすべてを消し去ることは不可能です。この列島にも、大陸にもその痕跡は残されています。
大陸に残された資治通鑑には、その侵略の当事者の姿が残されていました。資治通鑑は、北宋の時代、1084年に司馬光によって作成されています。紀元前403年から954年、北宋が建国されるまでの歴史が、編年体で記されています。
では、その資治通鑑に、この列島がどのように描かれているのか見ていくことにしましょう。
660年に百済と高麗は新羅を攻め、新羅は唐に救援を求め、朝鮮半島は大きな戦乱状態に陥ります。唐王朝は、この期にとばかりに、念願の東アジアの制圧を目指します。
その戦乱の中で、唐の武将劉仁軌は、監督下にあった兵糧船が転覆したため、処分を受けてしまいます。翌年、唐軍の武将劉仁願は、百済府城を占拠するのですが、逆に百済軍に包囲されてしまいます。そこで唐は、仁軌に新羅軍とともに仁願を救援するように詔を発します。前年に処分を受けていた仁軌は、名誉挽回とばかりに大いに奮起します。
その折に、仁軌は、「吾は東夷を掃平し、大唐の正朔を海表へ頒布するのだ!」とその征服欲を赤裸々に語っています。東夷、つまり百済や倭国などに住む東方の夷人を一掃して平定し、大唐帝国の正朔、すなわち暦を頒布するということは、征服して唐の暦で支配してやるということで並々ならぬ気概を燃やしています。
そして、仁軌は新羅の兵と合流して、百済軍を攻撃し、打ち破りながら進軍していきます。その結果、百済は万余人が戦死、溺死したとあります。
さらに戦闘は激化し、662年、百済は、倭国にも援軍を要請してきます。
一方、唐王朝も同年12月、いよいよ高麗・百済討伐の詔を発します。
その翌年663年の9月、熊津道行軍総管、右威衛将軍孫仁師等が白江にて百済の余衆及び倭兵を破ったとあります。さらに、仁軌等は、水軍及び糧船を率いて熊津から白江へ入り、陸軍と共に周留城へ向い、倭兵と白江口にて遭遇しています。これが、『白村江の戦い』と言われており、仁軌軍は、四戦して全勝し、倭国の舟四百艘を焼き、煙炎は天を焦がして海水は朱に染まったと記されています。
倭国、つまり出雲王朝は、5万人とも言われる軍勢を百済救援へと送り込みましたが、ことごとく殲滅されてしまいます。その直後に百済は滅ぼされてしまい、倭国もその主力部隊を失ったため、この列島は仁軌率いる唐王朝軍にあえなく占領・支配されることになってしまいました。 百済は戦乱の後で、家などは焼け落ち、屍は野に満ちていたとありますが、この列島も同様の状況下にあったことでしょう。
そして、仁軌は、屍を埋葬させたり、戸籍を作り、村へ人を集め、道路を開通させ、橋梁を立て、堤防を補強するなどといったことも行っています。つまり、戦後復興という『マッカーサー』的な役割をも果たしています。農耕対策、貧民救済、孤老対策や、当初述べていた唐の正朔を頒布したともあります。仁軌は、その後に屯田を置き、兵糧を蓄え、士卒を訓練し、高麗を図ったとあるように、反抗する勢力を一掃した後、そこを唐の勢力下にしています。
つまり、その戦後復興といった行為も、朝鮮半島を高麗征服の拠点にするためというのがその目的だとしています。
その翌年、664年の10月、仁軌は、皇帝にいくつかの進言をしています。
そこには、貴重な資料となる事柄が述べられています。
仁軌は、現地の守備兵について『疲弊したり負傷した者が多く、勇健な兵は少く、衣服は貧しくくたびれ、ただ帰国することばかり考えており、戦意がありません』とその状況を伝えています。
その守備兵が言うには『かつては、出征すると褒章が与えられ、海を渡れば勲1等を賜ったものだ。近年は、海を渡る者の名前さえ記録されず、戦死しても誰が死んだのかすら聞かれることもない。富める者は若くてもお金を渡して出兵から逃れ、貧しい者は老人でも連行されてしまう。出兵したらいろいろ強制に追い立てられ生きることすらままなりません。公私共に困弊し、言い尽くすこともできません。ですから、出兵に引っ張り出されるとこき使われるので、百姓は従軍を願わないのです』と紹介しています。
そこで仁軌が、その兵士に『往年の兵士は五年でも留まったが、今の汝等は赴任して一年しか経っていない。それなのに、なんでそんなにくたびれた有様なのだ』と聞きます。そうしますと、その兵士は、『家を出発する時に、ただ一年分の装備のみが支給されたのに、二年経ってもまだ帰して貰えません』と答えています。仁軌は、皇帝に『兵士達が持っている衣を検分すると、今冬は何とか身を覆うことができるでしょうが、来秋はどうやって過ごせましょうか』とその兵士たちの状況を述べています。
これらのことから、唐王朝軍によりこの列島が侵略されたのは、664年秋の1年前だということが分かります。
仁軌は、さらに重要なことを述べています。
『陛下が兵を海外に留めているのは、高麗を滅ぼすためです。百済と高麗は昔からの同盟国で、倭人も遠方とはいえ共に影響し合っています。もしも守備兵を配置しなければ、ここは元の一国に戻ってしまいます』
先に、唐王朝は、高句麗の制圧を何度も試みてきては失敗していたとありました。
仁軌も、そのことを述べています。
そして、高句麗対策として、その同盟国をまず制圧し、そこを高句麗攻撃の拠点にするために唐は兵を置いていると、この列島の侵略や占領の目的を記しています。
この列島の制圧も高句麗対策の一環だったと仁軌は述べ、さらに重要なことに触れています。
『還成一國』
この列島も百済や高句麗と深い関係があり、守備兵を配置しておかなければ、元の『一国』に戻ってしまうと述べています。つまり、この列島は、『一国』と『大国』の統一した国を為していたと、このサイトでもその認識を公開してきましたが、そのことを仁軌は述べ、記録として残されていました。
卑弥呼のいた女王国の名称が、魏書において『邪馬壹国』とありましたが、それは書き間違いでも認識間違いでもなく『壹国』、つまり『一国』でなければならなかったのです。唐王朝によって『邪馬壹国』は、『邪馬臺国』と改竄されてしまいましたが、それが改竄であったことが、その改竄をした当時者である唐王朝の将軍の言葉によって証明されたことになります。
唐王朝は、その一方の『大国』、すなわち出雲王朝の勢力は殲滅し一掃しましたが、そのままにしておけば、『大国』の支配は消したが、ただもとの『一国』に戻るだけで、その地を引き続き占領支配し続けなければ、高句麗対策という列島征服の目的は果たせないと、その思惑を明かにしています。
この列島は、高句麗制圧のため、そしてアジア一帯を自国の支配下にしようとする大唐帝国構築のために侵略され、その後も高句麗対策などといった戦略のために占領支配が続けられていきました。
仁軌の進言で、この列島の兵は交代することになり、仁軌も帰国するように促されます。
しかし、仁軌は、『国家が海外へ派兵したのは、高麗経略の為だが、これは簡単には行かない。今、収穫が終わっていないのに、軍吏と士卒が一度に交代し、軍将も去るのは良くない。夷人は服従したばかりだし、人々の心は安んじていない。そんなことをすれば必ず変事が起こる。しばらくは旧兵を留め、収穫が終わり資財を揃えてから兵を返すべきだろう。軍をしばらく留めて鎮撫するべきだ。厚く慰労を加え、明賞重罰で士卒の心を奮起させるのです。もしも現状のままならば、士卒達は疲れ果てて功績などとても立てられないでしょう。まだ帰るわけにはいかない』と占領支配の陣頭指揮を現地で続けると答えています。
この列島は、仁軌率いる唐王朝軍によって侵略を受け、その後も占領支配が続けられ、この列島から出雲王朝『大国』や卑弥呼の国『一国』の影響を一掃し、唐王朝の支配が確立するまで、仁軌はこの列島で指揮を執っていたようです。
まさしく、劉仁軌は、第2次大戦後の『マッカーサー』といったところのようです。
参考資料 資治通鑑Wiki
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