(10) 魏志倭人伝に記された、伊都国へ到る道順
 まず、朝鮮半島から対馬までの距離が、千余里とされています。対馬から対岸の釜山までは、およそ50km余りです。つまり、当時の1里は、およそ50mということになります。
 次に、対馬から今で言う壱岐島までが千余里とあります。それは、同様におよそ50kmに位置しています。そして、壱岐島から千余里に、つまり、およそ50kmに上陸地点である『末盧國』があるとしています。よく言われるところの『平戸』や『松浦』、『唐津』といった場所は、およそ30〜40km程しかありません。その距離からしますと、金印が発見された志賀島のある博多湾が、ちょうど50kmで、その地が大陸からの上陸地点、港だったということでは、一番整合性が高いと考えられます。つまり、当時の、大陸とこの列島とを結ぶ表玄関だったということになります。
 次に、『末盧國』から、陸を東南に五百里行くと『伊都国』に『到る』とあります。『末盧國』、つまり、博多から東南には、山に挟まれた平地が開けています。そこを、五百里、およそ25km行きますと、『伊都国』に『到る』としています。それまでの国には『至る』とありましたが、ここ『伊都国』には『到る』とあります。つまり、今までの国は通過点でしたが、『伊都国』は、目的地、到着地点だとしています。
 では、それは、どの辺りになるのでしょう。博多から大野城や大宰府を通り、25km行きますと、『甘木』がそれに相当します。現朝倉市甘木、この地に『伊都国』があったと考えられます。地理的には、博多から日田を通り大分へ抜ける街道、小倉から久留米を通り大牟田へ抜ける街道、そして吉野ヶ里や唐津・松浦・平戸方面へ向かう街道、これらの主要な街道が甘木で交差しています。つまり、この甘木を中心にして、九州各地へ道が通じていたことになります。
 また、その『伊都国』には、帯方郡からの使者が往来していて、いつも駐在しているとあります。伊都国には、今で言うところの『大使館』があったのです。ですから、この魏志倭人伝に記されている道順は、その大使館のある『伊都国』へ到るためのものだったとも言えます。甘木の地は、地理的にも機能的にも、要所に位置していたということになります。
 また、『末盧國』を、『平戸』や『松浦』、『唐津』とする説も見受けられますが、そこから東南に向かおうとしても、そこは山が連なっていて行くこともできません。また、五百里、およそ25km行ってもそれらしい拠点となる場所もありません。したがって、そこに記述されているところに従って行き着くのは、現朝倉市甘木ということになります。
 ですから、松浦や唐津に上陸し、博多を経由して甘木に到るといった遠回りをする必要は全くありません。当時の要所となる港だった博多に上陸して、甘木の地にあった『伊都国』に直行するのが、最短で一番行き易い道のりとなります。   


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V、卑弥呼の里に至る!
 魏志倭人伝・後漢書を検証して、卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかったことが明らかになりました。
 そして、卑弥呼の女王国「邪馬壹国」とは別に、大倭王の君臨する「邪馬台(臺)国」、つまり、この列島の都が出雲に存在していたことも分かりました。
 では、卑弥呼はどこに居たのでしょう。それは、魏志倭人伝に描かれています。
 ご一緒に、卑弥呼の里を探索してみましょう。