邪馬台国検証

(14) 国家的象徴と実質的支配者
 西暦150年頃から40年ほど続いた「倭国大乱」を制したのが、「スサノオ尊」を象徴とする出雲の勢力でした。そして、スサノオ尊は、先住の勢力の象徴である卑弥呼を国家的象徴として奉り、自らはその下で支えるという国家体制を築きました。この列島の支配者であるスサノオ尊ですが、先住民族を尊重するという姿勢や理念を、国家体制においても確立させました。
 それが、国名にも現れています。先住勢力の象徴である卑弥呼の国を「一国」とし、出雲の国を「大国」としました。この「一」と「大」は、様々な形で残されています。魏志倭人伝にある「邪馬壹国」は、この「一国」を表したものです。また、卑弥呼の里「日向国」一宮の都農神社の神紋は「一」です。
 一方、出雲に数多くある神社の神紋には「大」が多く見られます。その出雲の大国の王が、「大国主命」です。「大国主命」とは、個人名ではなく、今で言う総理大臣といった職名です。
 では、どうして「一」と「大」なのでしょう。それは、「一」と「大」という文字を合体させると「天」という文字になるからです。そこには、卑弥呼とスサノオ尊の両者によって、この世界が築かれるといった理念が込められています。その固い絆を表現したものでもあります。そして、「一」は上に位置しています。同時に「大」は下に位置しています。先住勢力の象徴である卑弥呼の国を「一国」として敬い、出雲の勢力は、「大国」として支えるという国家体制の基本をそこに築いたのです。ここに、先住勢力と出雲の勢力との共同により国家的象徴の「天」が誕生しました。
 その国家的象徴の「天」は、全国津々浦々の神社で祀られました。その神社の前に建てられている鳥居は、その「天」の文字を象ったものです。
 この国家的象徴と実質的支配者という関係は、魏志倭人伝にも登場しています。

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、 無夫壻、有男弟佐治國。

 この列島には、元々男王がいたが、7・80年して争いが続き、一女子を王として共立したとあります。そして、その名を卑弥呼といい、夫は無く、弟「佐」が国を治めているともあります.
倭国大乱を制したスサノオ尊が、卑弥呼を国家的象徴とし、自らは弟として実質的支配者という立場で国を治めていたということです。この弟というのは、肉親関係ではなく権力機構における立場を表現したものです。弟分といったようなものでしょうか。その「佐」の王が、「スサノオ」というように今に伝わっているとも考えられます。
 この国家的象徴と実質的支配者というスサノオ尊によって築かれた国家体制は、その後もしっかりと引き継がれています。

使者言倭王以天爲兄、以日爲弟、天未明時出聽政、跏趺座、日出便停理務、云委我弟。
    

 隋書を検証した時にも出てきましたが、『天』をもって兄と為し、『日』をもって弟と為すというのは、国家的象徴である『天』と実質的支配者『日』という関係を意味したものです。ですから、国家的象徴の『天』は、夜が明けると同時に、実質的支配者であるところの『日』にすべてを『委ねん』と言うのです。
 その国家的象徴「天」が君臨していたのが、出雲の地だったのです。そして、それこそが、出雲大社の境内から柱が発掘された巨大神殿の意味するところです。その神殿は、高さ32丈、およそ100mはあったとも言われています。そこに国家的象徴の「天」が居たのです。今で言う皇居のようなものです。ただ、卑弥呼は、西都原に居ましたから、国家的象徴の『天』が、出雲の高層神殿に存在するようになるのは、卑弥呼よりも後の時代だと考えられます。
 そして、実質的支配者の「日」の勢力が居たのが東出雲で、そこが今で言う永田町で、「国庁跡」とされている辺りです。また、その山合には、スサノオ尊を祀る熊野大社があります。
 この出雲大社から熊野大社にかけてのエリアこそが、この列島の「やまと」と呼ばれていた都で、後漢書に大倭王の居る「邪馬臺国」と記されました。    

Copyright (C) 2006-2011 みんなで古代史を考える会 All Rights Reserved.

邪馬台国発見

W、隋・唐に屈しなかった出雲王朝(邪馬台国)
  この列島には、倭王と倭女王に象徴される2大勢力があったというのが、史書を検証することによって明らかになりました。
 では、その大倭王の居た「邪馬台(臺)国」は、一体どうなったのでしょう。
  


 邪馬台国 (メイン)   古代史