邪馬台国検証

(20) 邪馬台(臺)国が文身国にされる・・・梁書
 姚思廉によって「邪馬壹国」が「邪馬台(臺)国」にされてしまいましたが、では、本来の「邪馬台(臺)国」はどうなったのでしょう。

至魏景初三、公孫淵誅 後卑彌呼始遺使朝貢、魏以爲親魏王、假金印紫綬。正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。晋安帝時、有倭王賛。賛死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。 興死立弟武。齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。高祖即位、進武號征東(大) 將軍。其南有侏儒國、人長三四尺、又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。

 魏書において、卑弥呼の使者が朝貢したのは、景初2年の6月のことでした。その12月に使者は様々な品々と合わせて金印や銅鏡を授かって帰国したとありました。
 ところが、ここでは、景初3年となっています。今のわが国でも『景初2年』に行った卑弥呼の使者を『景初3年』だとする説があるようです。しかし、景初3年の元日に明帝が亡くなっていて、その年、魏は喪に服しており、公式行事も控えるというその時期に朝貢に行くことなど有り得ません。その上、明帝から詔書も受け取っています。景初3年に行ったのでは、そういった詔書を受け取ることなど不可能です。
 また、卑弥呼が亡くなったことも記されていますが、魏書ではその次に女王となったのは壹與とありました。ところが、壹與が臺與と名前まで変えられています。
 『邪馬壹国』を『邪馬臺国』と、『壹與』を『臺與』と、明らかに『壹』を『臺』に変えようとする意思があったということになります。
 この列島では、武帝を始め、倭の5王と言われる大倭王が大きな勢力を持ち、大陸の国々と対峙するほどになります。ところが、ここでは、そういった歴史を消し去り、中国の支配下にあったとする記述にしています。
 続けて読むと、この列島の倭人は呉の子孫で、卑弥呼の女王国と倭の5王とは同じ系統の王で、中国の支配下にあったという歴史になってしまいます。随や唐に対して対抗していた出雲王朝の存在をすっかり消し去っています。
 さらに、倭の5王の次に、卑弥呼の国の南にあった国々を紹介しています。そうなりますと、倭の5王は、卑弥呼の地に居たことになってしまいます。
 この梁書においては、大倭王の居た『邪馬臺國』は出雲から消されて、卑弥呼の居た西都原にあったことにされてしまいました。それは、同時に「邪馬壹国」も消されたということになります。
 いったい、どういう歴史なのでしょう。

文身國、在倭國東北七千餘里。人體有文如獸、其額上有三文、文直者貴、文小者賤。土俗歡樂、物豊而賤、行客不齎 糧。有屋宇、無城郭。
其王所居、飾以金銀珍麗。繞屋塹、廣一丈、實以水銀、雨則流于水銀之上。

 
 この梁書には、今までにない歴史が展開されていますが、「文身国」なる国も登場しています。
 冒頭に、倭は、帯方郡から1万2千里にあるとしています。それは、魏書と同様、西都原の地を認識していたことになります。
 そして、この文身国なる国は、その倭国の東北7千余里にあるとしています。では、宮崎県西都原から東北7千余里、つまり1里が50mでしたから、350kmにある場所はどこになるのでしょう。
 そこは、まさしく、出雲の地であります。この列島の都であるところの『邪馬台(臺)国』、その出雲王朝の存在を消し去り、そこに『文身国』なる国を創作しています。
 その文身国では、全身に獣のような文、つまり、刺青をしているとあります。魏志倭人伝では、この列島の風俗を紹介する中で、海に潜って蛤や魚を捕獲する時に、サメなどから身を守るために、全身に刺青をしているとありました。そういった南方の民族の風習を、出雲の地にいる人々の風俗としています。
 出雲は製鉄の民族ですから、海に潜ることを主にしてはいません。ですから、全身に獣のような刺青などする必要性は出てきません。また、その額には、『三』という文字を入れているともあります。『三』は、出雲の象徴です。島根半島の東端には、全国の『えびす神社』の総本社の美保神社がありますが、そこの神紋は『三』です。
 さらに、その国の人々は豊かだが、賎しいのでお客があっても食べ物を出してもてなすといったことをしないとも述べています。その王の住まいに至っては、金銀財宝に彩られており、家の周囲には水銀が雨ざらしになっているとしています。
 この一連の記述は、極めて恣意的な表現に満ち溢れています。獣のような刺青をした賎しい人間がいて、その王は放蕩三昧だとしています。
 つまり、散々悪者に仕立て上げようとしています。
 背景には、民族的な対立があったのかもしれませんが、それだけでもなさそうです。
 当時、水銀は、今の石油に相当する貴重な資源でした。道教にあっては、不老長寿の秘薬とされていました。仏像など金の塗金においては、金を水銀に溶かして塗り、その後、水銀が蒸発すると金だけが残ります。つまり、金メッキです。また、柱等に塗られていた朱も、水銀朱です。当時、水銀は、極めて貴重な鉱産資源でした。その水銀が、丹波や伊勢などを中心に、この列島から豊富に産出されていました。
 唐王朝は、それに食指が伸びていたようです。王の家の周りに水銀が雨ざらしになっているなどというところには、唐王朝の水銀が欲しくてたまらないといった思いがよく現れています。
 その水銀を奪うために、それを手中にしていた出雲王朝を悪者に仕立て上げたとも考えられます。桃太郎のお話のようなものです。今でもそうですが、ある勢力や国を執拗に貶めようとするのは、そこにはそれなりの目論見があるからです。何らかのターゲットにしているからこそ、悪者に仕立て上げようとします。

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