邪馬台国検証

(24) 劉仁軌、この列島を占領する

十二月,戊申,詔以方討高麗、百濟

 そして、662年12月には、いよいよ高句麗、百済討伐の詔が発せられます。
 唐王朝は、日本も含め、反抗する勢力の殲滅に乗り出します。
 一方、百済も、日本に支援を要請し、朝鮮半島は、抜き差しならぬ情勢となってしまいました。

九月,戊午,熊津道行軍總管、右威衞將軍孫仁師等破百濟餘衆
及倭兵於白江,拔其周留城。初,劉仁願、劉仁軌既克眞峴城,詔
孫仁師將兵浮海助之。百濟王豐南引倭人以拒唐兵。仁師與仁願、
仁軌合兵,勢大振。諸將以加林城水陸之衝,欲先攻之,仁軌曰:
「加林險固,急攻則傷士卒,緩之則曠日持久。周留城,虜之巣穴,
羣凶所聚,除惡務本,宜先攻之,若克周留,諸城自下。」於是仁師、
仁願與新羅王法敏將陸軍以進,仁軌與別將杜爽、扶餘隆將水軍
及糧船自熊津入白江,以會陸軍,同趣周留城。遇倭兵於白江口,
四戰皆捷,焚其舟四百艘,煙炎灼天,海水皆赤。


 翌663年9月、熊津道行軍総管、右威衛将軍孫仁師等が、白江にて百済の余衆及び倭兵を破ったとあります。さらに、劉仁願、劉仁軌、孫仁師等は、加林城が水陸の要衝なので、まずこれを攻めようとしますが、仁軌は「加林は険固だ。急攻したら兵士が傷つくし、ゆっくり攻めたら持久戦に持ち込まれる。周留城は虜の巣窟で群凶が集まっている。悪を除くには、元から絶つことだ。まずこれを攻めよう。周留に勝てば、諸城は自ら下る。」と言い、仁師、仁願と新羅王法敏は陸軍を率いて進みます。仁軌と別将杜爽、扶余隆は水軍及び糧船を率いて熊津から白江へ入り、陸軍と共に周留城へ向かいます。
 この時、日本軍と仁軌軍が、白江口にて遭遇します。仁軌軍は、四戦して全勝し、その舟四百艘を焼き、煙炎は天を焦がして海水は朱に染まったとあります。
 これが、『白村江の戦い』と言われています。
 この戦闘で、日本軍は、数万人の兵士が命を落としています。
 当時の、この列島の人口を考えると、主力となる戦力が失われたことになります。

詔劉仁軌將兵鎭百濟,召孫仁帥、劉仁願還。百濟兵火之餘,比屋凋殘,僵尸滿野。仁軌始命瘞骸骨,籍戸口,理村聚,署官長,通道塗,立橋梁,補隄堰,復陂塘,課耕桑,賑貧乏,養孤老,立唐社稷,頒正朔及廟諱;百濟大悅,闔境各安其業。然後脩屯田,儲糗糧,訓士卒,以圖高麗。

 唐王朝は、高句麗を征服するため、まずは百済や倭国をその攻撃対象にしました。
 663年9月から10月にかけて、百済や倭国の唐王朝に反抗する勢力は、ことごとく殲滅されてしまいました。
 そして、その戦後処理といったことも描かれています。
 劉仁軌は、兵を率いて百済を鎮守し、孫仁師、劉仁願は、先に帰国しています。
 戦乱により、百済は、家は焼け、屍は野に満ちていたとあります。この列島も同様の状況下にあったことでしょう。そして、仁軌は屍を埋葬させ、戸籍を作り、村へ人を集め、道路や橋、堤防を復旧させるなどの戦後処理を行っています。
 さしずめ、第2次大戦後のマッカーサーといったところのようです。
 先に仁軌が言っていましたが、正朔を頒布したとあるように、唐王朝の暦で支配しています。さらに、仁軌は、その後に屯田を修めて、兵糧を蓄え、士卒を訓練し、高麗征服に備えたとあるように、百済やこの列島を高句麗征服のための拠点にしています。
 すべては、高句麗征服が目的だとしています。

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