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(23) 劉仁軌、出陣 詔起劉仁軌檢校帶方州刺史,將王文度之衆,便道發新羅兵以救仁願。仁軌喜曰:「天將富貴此翁矣!」於州司請唐暦及廟諱以行,曰:「吾欲掃平東夷,頒大唐正朔於海表!」仁軌御軍嚴整,轉鬭而前,所向皆下。百濟立兩柵於熊津江口,仁軌與新羅兵合撃,破之,殺溺死者萬餘人。 660年3月に、百済と高句麗が新羅に侵攻し、新羅は唐に援軍を要請しています。それ以後、朝鮮半島は、戦乱状態に陥り、その8月、唐は、現在の韓国の中ほどにある広州のあたりに、彼らの拠点となる熊津都督府を置いています。 661年になると、さらに戦闘は激しくなり、唐の将軍劉仁願は、百済府城を占拠していましたが、逆に百済の勢力に包囲されてしまいます。 そこで、唐王朝は、劉仁軌を、検校帯方刺史として、仁願を救援するよう命じます。前年12月、兵糧船を転覆させた責任から処分を受けていた仁軌は、大いに奮起します。 『天は、この翁を将に富貴にせんとしている!』 さらに、『吾は東夷を掃平してやる、そして、大唐の正朔を海表へ頒布するのだ!』 唐の暦を頒布するとは、唐王朝の暦で支配してやるという意味で、当時、還暦間近の仁軌ですが、並々ならぬ征服欲をあらわにしています。 仁軌の軍は、向かうところ敵なしといった勢いで進軍し、百済軍は、万余人が戦死、あるいは溺死したとあります。 しかし、新羅軍も出兵しますが、百済軍に破れ、双方、一進一退といった状況が続きます。 左驍衞將軍白州刺史沃沮道總管龐孝泰,與高麗戰於蛇水之上,軍敗,與其子十三人皆戰死。蘇定方圍平壤久不下,會大雪,解圍而還。 唐王朝軍の蘇定方は、661年に平壌城を包囲しますが、苦戦し、翌662年2月には、大雪のために帰国しています。 仁願、仁軌等屯熊津城,上與之敕書,以「平壤軍回,一城不可獨固,宜拔就新羅。若金法敏藉卿留鎭,宜且停彼;若其不須,即宜泛海還也。」將士咸欲西歸。 一方、仁願と仁軌も、熊津城を占拠していましたが、百済軍に包囲され兵糧も補給できなくなってしまいました。 そのため、662年7月、皇帝は新羅に戻るか、帰国せよと指示を出します。 今平壤之軍既還,熊津又拔,則百濟餘燼,不日更興,高麗逋寇,何時可滅!且今以一城之地居敵中央,苟或動足,即爲擒虜,縱入新羅,亦爲羈客,脫不如意,悔不可追。況福信凶悖殘虐,君臣猜離,行相屠戮;正宜堅守觀變,乘便取之,不可動也。」 しかし、仁軌は、その皇帝の指示に従いませんでした。 『高句麗を滅ぼすために先ず百済を攻めた。ところが、平壌の我が軍が帰国し、この熊津からも手を引いたらいつになったら高句麗を滅ぼせるのか。今、敵地の真只中にいる。下手に動いたら捕らえられる。機会をうかがい、不意をつけばチャンスが生まれる。動いてはいけない』と動きませんでした。 そして、仁軌は、その作戦どおり、包囲していた百済軍の不意をつき、新羅への補給ルートを確保しています。 一方、百済軍の内部には乱れが生じ、高句麗や倭国へ援軍を求めるに至っては、完全に攻勢から守勢に回っています。 ここから、劉仁軌は勢いづき、一気に侵略を開始します。 |
Ⅵ、邪馬台国を滅ぼした唐王朝 隋の煬帝は、3度も高句麗遠征に失敗しますが、その東アジア征服の動機は、唐王朝においても引き継がれます。 唐王朝第3代皇帝李治、その皇后武則天の時代になり、朝鮮半島をめぐって、東アジアは戦乱状態に陥ります。唐王朝は、チャンス到来とばかりに、高句麗、百済、日本征服に乗り出します。 唐王朝による東アジア征服の経過は、『資治通鑑』に残されています。『資治通鑑』(しじつがん)とは、北宋の司馬光が編纂した編年体の歴史書で、1084年に成立しています。収録範囲は、紀元前403年から、959年までの1362年間となっています。 |