邪馬台国検証

(26) 劉仁軌が占領支配を確立し、凱旋帰国

上深納其言,遣右威衞將軍劉仁願將兵渡海以代舊鎭之兵,仍敕仁軌俱還。仁軌謂仁願曰:「國家懸軍海外,欲以經略高麗,其事非易。今收穫未畢,而軍吏與士卒一時代去,軍將又歸;夷人新服,衆心未安,必將生變。不如且留舊兵,漸令收穫,辦具資糧,節級遣還;軍將且留鎭撫,未可還也。」

 皇帝は、劉仁軌の進言を聞き入れて、守備兵を交代させています。そして、同時に、仁軌へは兵卒達と共に帰国するよう指示してもいます。
 しかし、仁軌は、「国家が海外へ派兵したのは、高麗経略の為だが、これは簡単には行かない。今、まだ収穫が終わっていないのに、軍吏と士卒が一度に交代し、軍将も去る。夷人は服従したばかりだし、人々の心は安んじていない。必ず変事が起こる。しばらくは旧兵を留め、収穫が終わり資財を揃えてから兵を返すべきだろう。軍をしばらく留めて鎮撫するべきだ。まだ帰れない。」と、述べています。
 唐王朝が、百済やこの列島に派兵したのは、高句麗攻略のためだと、改めてこの列島征服の思惑を述べています。
 そして、『夷人は服従したばかり』だとあります。隋書で、この列島の倭王が『我は夷人だ』と述べてもいましたが、この列島を支配していた出雲王朝の勢力を征服したが、まだ安心はできない、だから、武将や兵士がみな交代してはいけないと、仁軌は、引き続き、この列島の占領支配のために残っています。
 ここでも、仁軌は、皇帝の指示と異なる判断をしています。
 一武将が、そうたびたび自分の考えで行動することは、皇帝に反抗していることにもなりかねません。あるいは、皇帝ではなく、武則天の指示で動いていたということも考えられます。
 どちらにしても、劉仁軌は、この列島の占領支配、そして、高句麗征服に向けた拠点にするために、引き続きこの列島に残っています。
 北九州にある大宰府跡は、『都督府跡』ともされています。検校熊津都督だった劉仁軌は、そこをこの列島支配の拠点としていたのかもしれません。

八月,壬子,同盟于熊津城。劉仁軌以新羅、百濟、耽羅、倭國使者浮海西還,會祠泰山,陛下留兵海外,欲殄滅高麗。百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,

 665年8月、劉仁軌は、新羅、百済、耽羅、倭国の使者が海西に還ったので、泰山の祠で会談したとあります。

麟德二年、封泰山、仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會、高宗甚悦、擢拜大司憲。

 こちらは、旧唐書の劉仁軌伝にある記述ですが、同じく麟徳2年(665)に、劉仁軌は、新羅、百済、耽羅、倭国の4国の酋長を連行し、高宗は、甚だ悦んだとあります。
 つまり、劉仁軌は、663年にこの列島を征服し、その占領下で唐王朝に反抗する勢力を一掃しました。そして、その平定もある程度完了したと見たのでしょうか、665年に周辺諸国の王を唐に連行しています。
 劉仁軌の、勝利の凱旋帰国といったところのようです。
 征服された倭王は、すでに王ではなく、酋長などとされてしまいました。
 その囚われた倭王は、671年に帰国したと日本書紀にもあるように、征服された出雲の勢力からの反抗封じでしょうか、しばらく唐に抑留されています。

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