私はこうして『邪馬台国』に到達した!

(12)『邪馬台国は出雲』・・・その確証 

1)出雲で『景初3年』の銅鏡が出土

 中国の史書を調べることで、実は『邪馬台国とは出雲を意味していた』というところに行き着きました。しかし、その確証といえるものがあるのかどうか、次は、その認識を裏付けることが必要となってきました。
 調べていましたら、出雲の地でそれを証明する物が発見されていたことが分かりました。場所は、島根県大原郡加茂町神原。今は合併して雲南市になっています。地理的には、358本の銅剣が発見された荒神谷遺跡や、39個の銅鐸が発見された加茂岩倉遺跡の東南に位置し、斐伊川の支流の赤川沿いに『神原神社古墳』が見つかりました。
 1972年8月、その赤川護岸工事の時に、神原神社の真下から古墳が発掘され、竪穴式石室から刀剣や勾玉、そして三角縁神獣鏡と言われる中国製の銅鏡が発見されました。その直径約23センチの三角縁神獣鏡には、『景初3年陳是作』という銘文が刻まれていました。この発見は、実は、わが国の歴史を変えるほどの大きな意味を持っていたのです。
 その銅鏡には魏の年号で『景初3年』と記されていたことから、三国志魏書、つまり魏志倭人伝に卑弥呼が魏から銅鏡を百枚授かったという記載があり、その内の1枚ではないかとも言われています。 しかし、魏志倭人伝では、『景初2年6月』に倭女王が、大夫難升米を魏へ派遣したとあります。つまり、この魏書を読む限りにおいて、銅鏡が造られたのは『景初2年』かあるいはそれより前ということになります。『景初2年』に渡された銅鏡の中に、まだ造られてもいない『景初3年』に作成された銅鏡が入り込むことはあり得ないことです。
 ですから、『景初3年』の年号が刻まれた神原神社古墳で発見された銅鏡は、卑弥呼が魏から授かった銅鏡ではなかったということになります。
 としますと、どういうことになるのでしょう。


2)正始元年にも、『倭王』へ銅鏡が渡されていた

 魏書では、『正始元年』にも『倭王』へ銅鏡が贈られたという記述がありました。『正始元年』は、西暦では240年にあたります。『景初2年』は、238年ですから、2年後にまた詔書や印綬、そして様々な品物と併せて銅鏡も贈られているのです。つまり、卑弥呼に銅鏡が渡されたのは『景初2年』ですから、『景初3年』の銅鏡が卑弥呼に与えられることは不可能です。
 そうなりますと、『正始元年』にも詔書や銅鏡が届けられていますから、当然そちらの銅鏡に相当するのではないかということになります。『景初3年』は『正始元年』の前年にあたるのです。
 したがって、『景初3年』に作成された銅鏡が、翌年『正始元年』に倭王へ届けられたとなります。 『景初3年』の銘文の入った銅鏡は、卑弥呼ではなく倭王に贈られたものだったのです。
 また、卑弥呼の使者が魏に行ったのは『景初2年』と記されているが、実は『景初3年』の間違いだったという説もあります。しかし、それは、あり得ないことです。『景初3年』の正月には当時の皇帝(明帝)が亡くなっているのです。次に皇帝になった齊王は当時8歳で、後見人がついています。1年間は喪に服して公式行事も行われないというような時期に行ったなどあり得ません。
 ですから、この出雲の地から発掘された『景初3年』の銅鏡は、魏から倭王に贈られたもので、魏がこの国の邪馬臺の王として認めた証だとも言えます。そして、神原神社古墳の被葬者こそ、魏書に登場した大倭王だとも考えられます。神原神社のある地名の『大原』とは、『神の原』とともに『王の原』をも意味しているのかもしれません。
 従って、神原神社古墳から発見された『景初3年』の銘文の入った銅鏡こそが、正始元年に倭王、つまり邪馬臺国の大倭王に贈られた銅鏡だったという認識に到りました。
 わが国では、銅鏡が4000枚ほど出土していると言われています。その中で、三角縁神獣鏡と言われるものは約500枚ありますが、『景初3年』の年号が入った三角縁神獣鏡は、この神原神社古墳で発見された1枚だけです。そして、この銅鏡は、邪馬臺国、つまり『邪馬台国』が出雲を意味していた明確な証とも言え、大変大きな意味を持った銅鏡の発見だったのです。



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